学長法話

6月の法話 2016年6月24日(金)/大宮本館


皆さん、おはようございます。
4月から新年度が始まって、今日は6月24日ですので、すでに3ヶ月近くが経ち、季節も梅雨に入りましたけれども、昨日、今日と梅雨の晴れ間で陽が差し込んで、非常に爽やかな天候です。
しかしながら、この3ヶ月の間、特に4月14日には、熊本・大分で大きな地震がありました。ずいぶん長く余震が続いて、多くの方々が被災をして、また亡くなった方もあります。梅雨に入ってからもなお、「豪雨」と表現されていますが、九州地方ではずいぶん雨のきつい日々が続いていました。厳しい状況の中で生活されておられる方々に思いを寄せつつ、お見舞い申しあげたいと思います。

時々申しあげるように、大学では通常の講義以外にもいろいろな課外活動もあります。春先には対外試合もずいぶんとあって、毎週木曜日には大学執行部の部局長会議が持たれますが、その会議に先立って各サークルの成果を報告していただく機会が何度かあります。例えば、関西地区でも、女子バレーボール部、女子バドミントン部、女子柔道部などが活躍しています。あるいは先日は端艇部(男子)が軽量級で全日本優勝をしました。その前には吹奏楽部の受賞報告があったりしました。
このようにいろいろなサークルがそれぞれ活動に励んでいます。学生生活の成果とともに、生活にメリハリを付け、集中して、それぞれのサークル活動に取り組んでいます。本当に素晴らしい学生たちだと思っております。
私たちの時間の過ごし方はかなり拡散して、周りに影響され、時間を分断されて、いったい何をしているのか分からなくなるような生活もありそうな気がします。しかしながら、仏教の教えを学んだり聞いたり、そしてまたそれを行じていく中においては、ひたすら努力、精進をしていく道こそが尊いことだと言い伝え、それを行じてきた意味があります。従って私たちはいろいろと心が拡散していくようなところがあるわけですけれども、親鸞聖人のおすすめは、阿弥陀仏のはたらきに、ただひとつ心で帰依して、阿弥陀仏のはたらきにうなづいて、この身が必ず浄土に生まれてゆく身に定まり、ひるがえって自らを慚愧しながらエゴイズムを超えていくことであります。
それには、この〈わたし〉の向こう側に仏を対象としても、私の心は散心するばかりであって、むしろ今ここにいる〈わたし〉に、阿弥陀仏の智慧、慈悲のはたらきかけがあって、それを私たちはお念仏として称えながらそのはたらきを感じ、想い、自分の身を省みてゆく。そのあり方の中には、自分の傲慢さとか自惚れとか、そういうものを砕いていくこともあるでしょう。あるいは自己と他者との関係を、二分化しても対立的に考えるのではなく、「とも同朋」という関係に立つ人間になってゆく――こういう方向を育てられていくのが、私たちの大学の建学の精神から醸成されるあり方ではないだろうかと思ったりもいたします。

さて、6月1日の朝日新聞に「ビッグデータと私」という慶応大学の山本龍彦教授のインタビュー記事が掲載されていました。次のような内容でした――。
皆さんもインターネットサイトを使って、いろいろなものを買う場合があると思います。そういうものを使っていると、その人の使用した履歴がデータとして集積され、その人の好みや傾向が蓄積されます。そうすると、インターネットサイトからその人に適うような商品が勧められ、オススメ商品の案内がくる――こういう傾向があると指摘されています。
この場合は商品のことですけれども、同時に、データ集積、データ分析をしていくことによって、いろいろな個人の特徴、傾向が統計的に予測されることになります。これは確率の問題でして、統計上、予測されるということでもあります。そうすると、これは一見便利で、合理的で今の時代にふさわしいと思われるかも知れませんが、本質的には、そうとは言い切れない。どういうことかと言うと、一人ひとりには固有の尊厳、存在の固有性があるのに、確率、統計上の予測からその人の傾向を判断する、認識する――こういうことがある、という危険性を指摘されているわけです。
これを別の言い方では「プロファイリング」といいます。これは当初は、犯罪に関連する手法でした。犯罪歴などを集積していくと、統計上、一定の傾向が読み取れるということです。個々の人たちの情報を蓄えて、それを人工知能的に分析していくと、どういう傾向として読み取れるのか、ということだと思います。
これをもっとも象徴している事例としてよく言われるのが、人工知能と囲碁や将棋のプロとの対局です。それが春先にありました。韓国の囲碁の棋士と、これまでの何万通りの手を蓄積した人工知能との対局の結果としては、人工知能ロボットの方が4勝1敗で勝ちました。すると、これまでの機械的な学習を積み重ねていったデータから見ると、人工知能的なものが強いのかも分かりません。
しかしながら、人という存在は必ずしも知識や情報ばかりの世界で生きているわけではありません。一人ひとりは、それぞれに学んで、感じて、人に出会って刺激されていく場合もある。人の不思議な、予想しがたい、想定しがたい、計画的ではない、人工的ではない、「ご縁があって」と言うような、私たちの知性的・分析的なことだけではない、出会いというものがあって、喜びがあって、感動したりする。言うならば機械的に学習をしたり、機械的に集積したデータを確率的統計的に見て、物事を判断していくだけでは読めない、不明なところ、不可思議なことがあるということだと思います。
今の社会は「データ主義」であり、データでいろいろなものを判断します。現在はプロ野球などもそうですし、スポーツでも対戦相手のデータを分析して対策を立てたりします。私はアメリカンフットボール部の名誉顧問を務めていますが、アメフトの試合も相手の作戦を必ず分析します。試合をビデオカメラで撮って相手の試合運び・作戦を分析して対応的作戦をたてます。どういう作戦が、幾通りあるかを分析し、それに対抗するにはどうするのか、作戦を徹底して考えます。しかし、それでもなお、その通りにいかないところがあります。やはり、その場その場の局面の判断であったり、直感であってみたり、ひらめきであったりする。そういうものが必ず含まれているわけです。
個々の人間の世界、われわれ自身も、本質的には不可思議な出会いであってみたり、あるいは一人ひとりのいのちに引きつけて言うならば、一人ひとりの分析知ではとらえがたいいのちのはたらきがある。阿弥陀仏のはたらきにも、そのはたらきに気づかせていただく、出会わせていただく――。稀にして、そういうことに気づかせていただく、学ばせていただくことこそが、大事なことではないだろうかと思ったりもします。

現代はメディア的にも、計算可能な、予測可能なところで進んでいて、しかし結果としての出来事が予想外であれば、「想定内」と「想定外」という対になる言葉を使い分けながら物事を理解しようとする。このような二分法による対言語で物事を理解、説明することに終始しているということです。
しかしながら人間の「想定」する範囲の限界と言うか、人間の考える以前の、人間であるがゆえの本質のところは、どういうことなのかということを謙虚に知っておく、気づいておく必要がある。私たちは一見物事を見定めていそうでもなお、不明なところがある。つまりそれは「闇がある」、あるいは「無明の中を生きている」と言ってもよいかも分かりません。闇のなかを生きている私たちだからこそ、阿弥陀仏の光――智慧・慈悲のはたらきに気づかせていただき、その光の中で、私たちはお念仏を通して、どこを向いて歩んでゆけばよいのか、その道に気づかせていただくということだと思います。
親鸞聖人のお聖教にも仏典で語られることが縷々書きしたためられていますけれども、その言葉を読んで、自らを内省的により深く、痛み――罪悪性とか煩悩とか、自分のあり方そのものを表現する、そのあり方、ありようそのままを指摘している、述べられている文章、言葉に出会う。そして、そういうところに全く関わらない、思いも到らない人は、ここ最近流行っている言葉でいうと、「なぜそれほど仏教は自虐的なのか?」と。自分自身を反省する、自分自身を深く問い詰めていく、自分のすがたを明らかにしていくことを「自虐的だ」という形で退けて、単純に自己肯定、自己禮讃、自己愛が強くなる傾向が広がっています。
しかしながら、仏の教えは「自虐的」なものではなくて、自らのありようそのままが知らされると同時に、私が浄土へ往き生まれさせていただく道を明らかにされたのが、親鸞聖人のみ教えであると、このように考えてみる、受けとめることが、大切なことではないだろうかと思わせていただくことでもあります。

大学では、あと1ヶ月ほどで講義が終わって、前期試験があろうと思います。ゼミの4回生の学生も6月から教育実習や就職活動に出たりして、慌ただしい時期を迎えています。
ただ、人の出会いというのは、不思議な予想しがたいところが、ずいぶんとあります。今週の月曜日に出張で東京にまいりました。小松製作所という大きな機械メーカーがありますが、その会社の野路(國夫)会長にお会いしました。少し前にある人を介してお会いしたのですが、なぜお会いしたか――。
本学は昨年、ご存じのように農学部を創りましたので、ある人にそのことを話していた時に、「最近、小松製作所の野路会長は、農業や林業の現状に危機感を持って今後どのようにあるべきなのか考えておられる」と伺ったからです。
――田植えの機械の使い方によって、あるいは田植えの前に苗を育てるにも、農機具の購入にも費用が嵩むので利益率が低くなる。そこで生産性とともに利益率を上げるために考えたのが、農機具購入を抑制するためにGPSを使って田んぼの段差をできるだけなくして平面化して、苗を育てずに直播きすれば、育苗の手間や機械費用を抑制し、合理化できるのではないかと提案しています。
野路さんと話すと、「龍谷大学農学部でも、コンピュータープログラムを使いこなし、農機具の使い方を見直し、生産性とともに収益率を考えてみてもいいんじゃないか」と教えて下さいました。野路会長から「私の実家は福井県で、小学校時分から近くのお寺の日曜学校に通って、お寺でお経を読んでいました」と。「今も日常の生活では、ほぼ毎日欠かさずお仏壇にお参りをしてお経を唱えます。私も小さい頃から浄土真宗の教えを聞いていたので。」と伺いました。それを聞いて私は、なるほど、社会のことを考えて、自分たちがどういう社会を構想し、造り出してゆかなければならないのかということにおいては、積極的に社会の現状、課題を分析して、自分のやれるところを精一杯、努力されている。野路会長は、生き方としてそういう歩みをされていると思いました。その人が内側にあることをうかがうことによって、仕事の取り組み方に気づかされたと思ったことであります。
皆さまもそれぞれ、学生として、教職員として、どういう活動、仕事をしていこうとも、どのような内面性を培いながら、それぞれに精励するのか、ということに意を留めていただいたら幸いかと思うことです。

朝早くからたくさんの皆さんにお参りいただいたことにお礼を申しあげて、法話とさせていただきます。ようこそお参りいただきました。

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