学長法話

10月の法話 2016年10月28日(金)/大宮本館


皆さん、おはようございます。
札幌ではプロ野球日本シリーズの三連戦(10/25~10/27)がありまして、私の知り合いに広島関係の方が何人もおられるため、この間、にわか応援を依頼されました。日頃はあまり応援してはいなかったのですけれども、日本シリーズが始まるとともに、にわかカープファンになっていました。この三連戦は広島東洋カープが先勝しながら、後半戦では、8回、9回での逆転劇もあり、昨日も9回の最後に北海道日本ハムファイターズがサヨナラ満塁ホームラン。あまり例のない結末を迎えたところです。

さて、先週は、金曜日(10/21)から日本を発って、米国カリフォルニア州バークレーに出張しました。龍谷大学バークレーセンター(RUBeC/ルーベック)で、私たちの大学が展開している英語関係の教育プログラムが始まって10周年を迎えました。10年間で1100人を超える学生たちが5週間、あるいはセメスターの期間の研修に出かけました。それぞれの国へ行けば、その国の環境の中で生活しなければなりません。日本列島に住んで、そこにどっぷりと浸かっていて、外国の言語がまったくできない私にとっては、コミュニケーションが苦痛で、常に隣に通訳をしてもらえる人をお願いしないとなかなかうまくいかない――そういう環境でしばらく過ごしました。
向こうの仏教・真宗もいろいろな課題を抱えているそうです。常に、仏教はこういう教えである、つまり仏陀は私たちにどういう発信をして下さるのか、そしてどういうことに気づくように願われているのか、ということと併せて、阿弥陀仏という仏さまも、私たちにどうはたらきかけて、何を気づかしめようとしているのか、ということについて積極的に伝える。それを伝えていくのが使命ではあるのですが、これをはっきりと伝えていくことこそが、自分たちのアメリカ社会における存在意義となる――。向こうの方がそう語っておられたのが、新鮮に思えたところでもあります。
日本社会では「仏教」と言いながら、解ったようでほとんど解らない。「浄土真宗」と言いながら、解ったようで解らない。「阿弥陀仏」と言っても、解ったようで解らない。徹底してそのことを考えようとする努力をしながら、阿弥陀仏のはたらきが今すでに、この私にはたらいていることに気づかされて、ただ一つ心で、専ら阿弥陀仏のはたらきに任せていく。そのことの肝要さを、私たちはつい、疎かにしてしまうところがあるのではないかと、カリフォルニアへ行って深刻に気づかせられた、ということです。

今日は10月28日ですけれども、朝ラジオを聞いていると、東京の方でも、10月31日にはハロウィンに関係した行事があるとのことでした。私はよく分からないのでインターネットで調べてみました。東京の渋谷では、若者を中心として仮装、コスプレ、そういう形で集まる動きがあるようです。このハロウィンも、元をたどれば、ケルト人の習俗、習慣から派生していると言いながら、多くはアメリカ社会の現象を日本の社会に持ち込むという形で始まった。
そのきっかけを調べてみると、東京ディズニーランドでイベント企画をしたことをきっかけにして、日本の社会では1990年代の後半から徐々に広がって、現在では大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパンでもイベントが行なわれて広がっているそうですが、日本の文化、日本の伝統的なあり方とは、ずいぶん違いがあるような気がします。日本社会でも、アメリカ文化の商業主義的なものの動き、広報がありますから、私たちが使っているインターネット関係の情報機器を通して、一方的に情報が入り、そういうものに靡いていくような、動かされていくような傾向があるのかも分かりません。

しかし、本学で学んでいる者として何を考えなければいけないか、ということで言えば、一つは人間のいのち。私たちの身にいただいているいのち――これは生物的な生命だけに留まらずに、もっと本質的には阿弥陀仏の光といのち、智慧と慈悲のはたらきがすべて、私たち一人ひとりにはたらき続けていることに気づくことが、私に何をもたらすのか。
ひとえに自分たちの驕り、思いあがり、賢者ぶり、そしてエゴイズムへの気づきですね。「つい」と言いながら、自分を中心としてものを考えがちになっている私に気づかしめられる。そこに自分の身の浅ましさが見えてきたり、自分の身の痛みを感じてみたりする。そういうところの根本、本質というものを私たちが考える、気づかせてもらえる――それが最も大切なことであろうと思います。
ですからこれは、私たちが外側の、対象的に物事を並べて捉え、比較している世界だけで過ごしていれば、そういうことに気づくきっかけすらないだろうと思います。私たちはつい、一般的には外に目を向けながら、ものを対比して、比較の中でものごとを考えてみたり、その価値観の中にすっぽりとはまってしまって、それとは異なる見方や価値観を受け容れられないということがありがちでもあります。しかし、そういうことばかりを追いかけるのではなくて、ひとえに、一つ心で、阿弥陀仏のはたらき、光に出遇わせてもらったときに、私の中で何に気づいていけるのか――そこに肝要なところがあると思います。

私は学長職に就いています。来年3月末で任期終わりなのですけれども、大学業務においては皆さんも私たちも、ある部分では、どうしてもそういう比較対照される世界に身を置いています。それを虚しく感じながらも無視できないものに、出版社や情報誌が掲げるランキング表があり、これに関心がとどまってしまいます。大学比較のランキングが語られて、広く社会に伝わってしまう。それを全く無視することも、放置することもできない。
そういうことだけで評価されることに虚しさも感じますが、一方では、大学のよさを明確に示しながら、本学の教育・研究・社会貢献などの取り組み、諸事業が広く社会にどういう意味があり、本学への期待を受けながら、展開するのか。それも大事なことであろうと思います。数値的に言えば、例えば前年度の2016年度は、トータルで志願者が64,000を超えていたと思います。その数値を比較すると、全国の私立大学の中では14位くらいのランクだったと思います。志願者数比較ですね。こういう志願者数、あるいは志願倍率や偏差値とか、そういう数値比較が評価基準として知られます。それを追いかけるわけではないですけれども、無関心ではおれないと思ったりします。

今日の社会はグローバル化している中で、数値目標、数値の国際化、標準化ということがある一方で、「しかしながら」というところを考えておかなければいけない。その「しかしながら」とは何かと言うと、一般的には文化のレベルであるし、より本質的には宗教的な内容です。それぞれ自分の拠って立つ所はどこにあるのかを明確にしておくことです。数値への対応に終始しない。でも数値の大切さも意識しておく。数値だけに翻弄されない。その翻弄されない根拠をどこに持って大学づくり、創造していくかが大切であります。
それが宗教、ことに阿弥陀仏の「量」化できない、量ることのできない世界に出遇って、大学創造していくことなのです。それこそが、数値に翻弄されない大学運営を、一人ひとりの生き方に見出していくことであると思うのです。
ですから、数値はいつの世の中においても可変的にまかり通るものでもあるし、そういうことに対応する世界であっても、数値に翻弄されないものがある。私たちは一人ひとりが、それぞれこの上ない尊い存在である。いのちの代替えは利かない、他人に代わることができない、そういう尊厳を持った存在として、一人ひとりが今ここにある、ということが、その根拠になると思うのです。
その根拠の本質は阿弥陀仏のはたらき、阿弥陀仏の誓願、本願です。自分の口からお念仏を称える、私の口からもれ出て称えられる念仏。どこであっても、いつであっても、お念仏を称える私のところに阿弥陀仏のはたらきがある。必ず私を抱いて離さない。摂め取って捨てない阿弥陀仏、というはたらきを感じてみる。そこに私たちがこの世においても、今日、今、いのちを終えるかもしれないこの身が、この世でいのち恵まれ誕生したものとして、エゴイズム、自己中心性を翻しながら、浄土に往き生まれていく道を拓いていけるのだ、ということになろうと思ったりもいたします。

10月末になり大宮キャンパスの銀杏も黄色く色づいています。私の研究室の窓から見える銀杏に季節の移ろいを感じます。今日はそれに合わせたネクタイを選んできました。
それぞれ季節を感じてみて、皆さんの日々のいのちも、自分の体をそれぞれ確認してみれば、今日もまた恵まれているいのちなんだなと感じることもできようかと思ったりもいたします。
若い皆さんは意識することが少ないかも知れませんが、日本の平均寿命は男性80歳、女性87歳です。しかしながら、統計数値が私を決定するわけではありません。統計は統計の世界としての平均値でありますけれども、その平均値が私を決定づけるものではないのであって、「老少不定(ろうしょうふじょう)」という言葉があるように、若くても何かのきっかけがあれば、いのちを終える。そのきっかけが何であるかが決定的なものではありませんが、極めて危うさを持つ、絶妙なバランスの上でこの身にいのちが保たれている。逆に言えば、大切にしないといけないいのちをいただいているのだと考えて、しっかりと大学生活を過ごし、真剣に勉強もして欲しいと願うところです。

今日は、皆さんとともに朝のお勤めをさせていただきました。ようこそお参りをいただきました。

このページのトップへ戻る