学長法話

11月の法話 2016年11月15日(火)/瀬田樹心館


皆さん、おはようございます。
普段より少し早めに大学に来られた皆さまと朝の勤行を共にさせていただきました。
11月7日は、二十四節季でいうと立冬(りっとう)です。いよいよ冬の準備に取りかからなければいけない時節を表わしています。22日の小雪(しょうせつ)までの間が立冬の期間になります。
11月に入りまして、ちょうど11月7日前後には、非常に寒い日がありました。北海道では本格的に雪が降っています。私は奈良の山間地にいますので、ずいぶん冷えて、それから1週間ほど風邪気味で咳が出たりします。立冬に入って、健康の本を読み漁ってみますと、体を温めるには鍋料理が最も良いそうです。ニンジン、タマネギ、ニンニク、ニラなど、体を温める野菜を一緒に食べる鍋料理がいちばん体を温める。この寒さからすると、本格的に鍋料理の季節に入ったようです。

瀬田キャンパスでの私の学長法話も、6年間の任期中で今回が最後になります。瀬田キャンパスは1989年に開設されて27年が経ち、昨年の農学部の開設とともに、キャンパス全体の建物も充実してきました。一方でグラウンドなどが狭くなっているのは確かですが、大学全体としてキャンパスとしては整ってきました。
大学の歴史はご承知のように1639年の西本願寺境内に設けた「学寮」から始まっています。学部の歴史からいいますと、深草キャンパスは1961年の経済学部の開学から(深草学舎自体は1960年から)算えると今年で56年目でしょうか。瀬田キャンパスは27年目であり、昨年できた農学部は今年で2年目を迎えています。私たちが大学の歴史と言うと、すぐに1639年という年を挙げるのですけれども、学部それぞれの歴史としては経済学部が56年目、農学部は2年目というように、それぞれの学部としての歴史を刻み、積み上げていく。今はそういう大切な時期であり、それぞれ学部ごとに歴史の刻み方を考えないといけない。このようなことを思ったりもします。

しかしながら一方では、私たちの大学の建学の精神――浄土真宗のみ教えと言っておりますけれども、それは阿弥陀仏の誓願、はたらきです。阿弥陀仏という仏さまがいったいどういう仏なのかを、ぜひ皆さん方もよく知って、その意味するところを徹底して思惟、考えて、自分の中にそのはたらきを感受してほしい、受けとめてほしいと思います。
「阿弥陀」は「アミターユス(無量寿)」、「アミターバ(無量光)」というサンスクリット語の音写です。「無量寿」「無量光」――量ることのできない光といのち、という意味であり、それは、私の持っている“ものさし”では量ることができない、という意味です。
この私というものを実体化してみたり、私があることを自明の前提にしてみたり、私に力があると思ってみたりするところに、私たち一人ひとりの驕り、驕慢(きょうまん)があり、あるいは「私のいのちだ」と、いのちを「私」という思いの中に囲い込んでしまっているような考え方があるわけですが、仏教・浄土真宗のみ教えでは、いのちの本質、中心は私のものではなくて、「恵まれたもの」「いただいたもの」なのです。
これを私が独占したり、恣意的に操作するものでもありません。同時にこれはまた、他のいのちと代わることのできない、尊く、かけがえのない、この身にいただいている、恵まれているいのちなのだ、と。これをきちんと本質的に深く思惟、考えられる人を育ててきた、あるいは育てていくのが、本学の長い歴史、伝統だと思います。

それをどのように解りやすく表現するか。現在、ホームページなどに示されているように、「真実を求め、真実に生き、真実を顕かにすることのできる人間を育成したい」。これが龍谷大学として、現在、表現している言語です。
同じ真宗系であっても、大谷大学などで使っているのは「仏教精神に基づいた人間教育」という言葉です。仏教精神に基づいた人間教育を施し、研究を行なう。だから真宗系といっても、それぞれ宗派、大学の歴史によって、表現する言説が違います。
もちろん言語、言葉だけでなくて、こういう朝のお参りにしても、礼拝の仕方、お焼香の作法も、真宗の各派によって違います。念珠の持ち方も、手の中に合わす作法も各派によって違います。同じ真宗でも、同じではありません。例えば、私たちは伝統的に焼香の際には香を1度だけつまんで焼香しますが、真宗でも大谷派などでは2回つまんで焼香をします。念珠を手のかけ方も、違いがあります。
龍谷大学には1639年を出発点として、卒業生なり在学生にさまざまな行事を通して身につけていってほしい固有の作法があります。ぜひ、在学生の皆さんにも、仏事など、こういう機会に、どのように合掌するのか、念珠にどう手を通すのか、焼香はどうしていくのか――そういう作法にも関心を持って、身につけていってほしいと思います。

特に「建学の精神」といっている浄土真宗の教えは、さまざまな神仏を、外側に、向こう側の対象に置くような考え方を取らないのです。こういう礼拝の場所では、正面に阿弥陀さまのお木像が安置されてありますが、ご本尊として示された形・姿について言葉として表現されるのは、あくまで方便として、このお木像を通して阿弥陀さまの何が示されているのか、何を気づかせてもらうのかという手だてが必要だということです。
その表現が木像であったり絵像であったりするわけです。ただ、私たちも、手だて――形・姿に示されたものがないと、説明だけではなかなか受け止めることができないわけです。しかしまた、形だけに拘わっていくと、その心を深く受け取る、読み取ることはできません。
11月5日は私の子どもの誕生日でした。毎年の誕生日には、プレゼントをするようにしています。プレゼントの形・姿は毎年違います。私はプレゼントをする側ですけれども、プレゼントをした形・姿を持ったものを受け取った側の人は、その形・姿を見て「これは昨年と違う」という程度の比較であればよいけれども、すぐに「これ、いくらしたの?」と言われると困るわけです。
私は10月中旬に米国へ行きました。龍谷大学はカリフォルニア州にバークレーセンター(RUBeC/ルーベック)を持っています。ちょうど今年で10周年ということで出かけて、その帰りに、皆さんもよく買われるような免税店で買い求めたプレゼントでした。
形を持ったものをプレゼントして、いま申したように「これ、いくらしたの?」と尋ねられると、プレゼントをする側の心が見失われる。心が受け止められない、ということですよね。皆さんもそういう経験があるかも知れません。
私の友人でも、結婚した相手に指輪をプレゼントする。その時に「これ、いくらしたの?」と尋ねられるとちょっと困る。プレゼントした人の心をどう受けとめるか、どうキャッチするかが大事で、形・姿を手がかりにして、その心を受け止めることが大切なのです。
ですから、阿弥陀さまを礼拝していく向こう側に見える関係も、その阿弥陀さまを通して、私にかけられている願い、はたらきは何なのか私たちがキャッチする。龍谷大学のキャンパス内においても「目に見えない仏の世界に目を向けよう」と、形・姿に見えない仏さまのはたらきがあるのですよ、と表現されています。

私たちに手がかりは必要ですけれども、形・姿が見えない仏さまの光にいつも照らされている。いつも阿弥陀さまの光に私は照らされている存在である。いつも見られている、私の姿を照らして下さる仏さまの眼がこの私に向かって注がれている。そのまなざしは、私に向けて、かけがえのない、他の人に代わり得ない、尊い大切ないのちを、この身にいただいているものだ、と常に喚びかけています。
同時に、私たちの身にいただいたいのちとしては限りがある。人生のどこかの段階で限りがあります。どこかの段階といえば悠長な言葉で、今、息の出し入れの真っ只中でというのがリアリティがあると思いますが、限りある人生の時間を大切に過ごさなければいけない――受け止める側はそうなるのですね――。
ですから学生の皆さんも、勉強にしてもサークル活動でも、時間は無限にあるわけではない。先送りすることなく、限りある時間の中で、いかに大切に時間を使いながら活動し、練習に打ち込んでいくのか。これをバラバラな散漫な心でやっていると、なかなかそれを習得することはできないと思います。ただ一つ心で、専念して精進することです。一つ心ですべてを阿弥陀仏のはたらきに任せていくというのが浄土真宗の教えなのです。
そういう意味では「一つ心」というのは極めて重要なキーワードになります。社会の諸条件は時代によって、状況によって変わっていきますが、条件を固定的にせずに、大切なのは、この身にいただいているいのちをかけがえのないものとして、恵まれたものとして受け止めていくことです。これを大事にして、可変可能な諸条件をよりよく改めていくことが、建学の精神の実践力、具現化だと思います。
皆さんも、せっかく龍谷大学にご縁をいただいたので、ぜひそういう心を持って、人生を力強く歩んでいければ、必ず実りある人生になっていく――こう思うところです。

たくさんの皆さんにお参りいただきましたことにお礼を申しあげて、終わらせていただきます。

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