12月の法話 2012年12月7日(金)/大宮本館
おはようございます。ようこそお参りくださいました。
昨年3月11日の東日本大震災から12月に入りまして1年9ヶ月経っています。大学では10月から2回にわたって被災地に学生のボランティアバスを派遣しております。 先日も11月16日から19日にかけて学生たちが多く参加してくれました。特に被災地である石巻市雄勝町という硯の名産の地でありますところを中心にして地元の多くの方々と交流しました。被災した雄勝町というところは皆さんご承知のとおり、大川小学校は多くの児童の方が亡くなった悲惨なことが生じた場所でもあります。学生たちが大川小学校へ行ってその荒れた現場に立ちながら、涙し、立ちつくし、様々な思いを刻みながら学びを深めて帰ってきたと報告を受けております。私たち教職員も学生ボランティア派遣については多くの支援金を提供していただき、学生の負担をできるだけ軽くするように取り組んでまいりました。
私たちは福島原発の事故で多くの方々が非難を余儀なくされ、ことにその地を何百年前から営々として開拓し居住し、そこで生活の営みをした人たちが放射能汚染ということでその地で生活できなくなって離れざるを得なくなった喪失感あるいは苦悩の深さ、あるいは憤怒というものを多く聞かせていただいております。私たちは遠く離れた京都にいますが私たちの生活の多くは電力エネルギーに、関西圏でも40パーセントを超えて原子力エネルギーに頼っております。ところがやはり3.11の事故をきっかけとしてさまざまな課題が尖鋭化されております。その中の一つとして、私たち自身の効率・利便・過剰な電力消費の暮らしのあり方も見直しながら、新たな方向への一歩を踏み出しえているだろうかと自問することがしばしばであります。
本学では自然再生エネルギーという課題へ新たな一歩を踏み出すべく、先日の法人理事会等におきまして社会貢献投資(SRI:Socialty Responsible Investment)を目的とした資金運用について承認されました。社会貢献型のメガソーラー発電事業への参画という形で今準備をしております。和歌山県の印南町と本学と新しく発足した事業会社、「株式会社PLUS SOCIAL」、株式会社京セラなどが連携しながら、再生可能エネルギーとしていわゆる太陽光のパネルを使ったエネルギー供給ということで具体的な貢献をしていきたいと考えています。「龍谷ソーラーパーク」(仮称)を設置します。これも私たちがなし得るひとつのささやかなあり方を本学自身が、全国の大学でもまだほとんど取り組んでいませんけれども、取り組みの一歩を踏み出していこうと進めております。
昨日、学生の学友会との間で、年一回の全学協議会が開催されました。それぞれ局毎からの意見が多くあるわけですけれども、その中で宗教局の方からいくつかの質問や大学の取り組みの姿勢が問われました。学生たちはアンケートをとおして建学の精神がどれだけ学生の中で定着しているのかというアンケート結果に基づいていろいろ質問してくれました。その中の一つで関心したことは、本学が浄土真宗本願寺派の設立の大学であるということを知っているかという質問について、「知っている」という学生が89%でありました。宗門校の大学であることを知っている学生が90%近くいることに感心しました。一方、本学には「建学の精神」があるのこと知っているかという質問事項では、「知っている」というのが67%で、「知らない」が32%でした。「知らない」ということの意味を問わなければいけないと思います。「建学の精神」が確かに語られています。浄土真宗の精神、親鸞聖人の精神であるという言葉自体は知っている、しかしながらその建学の精神とは何ぞや、親鸞聖人の精神とは何ぞやという、その内実に伴った質問をされていることを読み取っていくと、それは必ずしも知っているデータに反映しないのではないかと思います。私たちもいろいろな機会に、つまり大学の広報あるいはホームページ等々では本学は浄土真宗の精神あるいは親鸞聖人の精神を大学の存立の根本としているというように書いており、そのようなことを多くの方が書いていることをトレースされます。ほぼ共通の言葉としてあるかと思います。しかし、親鸞聖人の著作あるいは親鸞聖人のお弟子、例えば唯円の『歎異抄』などを読んだことがありますかと尋ねてみますと、「読んだことがない」とおっしゃる方もいます。記号的な知識で建学の精神が理解できるものだろうかと思います。私たちの大学は必修科目としては「仏教の思想」を学生に課していますが、釈尊や親鸞聖人にしてもそのご生涯についての基礎的な知識というものを習得しながら、その内実、本質とは何ぞやということを、自らのあり方を問い直すというところとの接点で学びとらないと建学の精神の意味を喪失してしまうのではないでしょうか。
本学は1639年以降、多くの学識あるいは研究成果を蓄積して、教育・研究を積み重ねていますが、それはどういった建学の精神をベースにしながら教育・研究が行われてきたのかの問いが大切であります。阿弥陀仏の誓願、はたらきにほかならない私が目覚め、気づくことで、私たち自身の生き方を変化をさせていただく、新たな私の歩みをさせていただく道が開かれてきます。
親鸞聖人の書かれたものの中に「ご消息」というお手紙が残されています。いくつかあるのですが第2通のところに、
という一節があります。私たちは私をたて、私があると思い込み、自明のこととして、自己中心的なあり方をとっている。これを仏教では「無明」といっているのでしょうけれども、そういう人を「酒に酔うて正しい判断ができなくなっている」と譬えられているわけです。けれども、すべて私を前提にして都合がいいとかあるいは悪いとか自分中心的な都合性で物事を判断している私たちのありようが気づかされていくことを機縁にして、迷いの循環から少しでも超えていける道が開かれていく。この開かれていく道が無明の酔い酒の酔いも少しずつ醒めて阿弥陀仏の薬をつねに好んでいくような身となっていく。私たち自身にとっては今日のお参りを通して阿弥陀仏のはたらきを自ら感じ、かつてはまったく自らも問い直してみることもなく、対比的な比較級の世界で考え、あるいは自分の身を比較級的な世界で位置づけるありようから、阿弥陀仏の誓いを聞き始めて無明の酔いも少しずつ醒めて、私自身のありようを気づかされてきて、阿弥陀仏の薬をつねに好むような身となっていく。これは私自身が念仏を申す身と徐々になっていく、自分たちの命の一番根源的な拠り処はどこにあるのか、そしてまた私たちのいのちの行方がどこに向かって歩んでいくのかということも徐々に知らされていく気づいていく。これがいうならば親鸞聖人のこのところに書かれていることばとしても無明の酔いも少しずつ醒めるという現在進行形の中での私たちのありようを気づかされていくというのが教えとの出会いであり、学生諸君においても多くの年を重ねている教職員にとっても阿弥陀仏との出会いの受け止め方が徐々に変化していくと思います。
本学にとっては現在の混迷する社会の中で私たちの苦悩が次から次へと生じているそのことがらの内実をより明らかにしながら自らの歩んでいく道を知らされていく、その切り拓いていく拠り処を、お念仏の中に求めていくということではないかと思います。
11月22日にホテルニューオータニ大阪で本学出身の企業経営者や会社役員を対象とした第3回目の「龍谷大学経営者ビジネスミーティング2012」が開かれました。基調講演では経営コンサルティング大手、株式会社船井総合研究所の代表取締役社長 高嶋 栄氏(1980年 経営学部卒業)をお迎えし、「今、中小企業経営者が考えておくべきこと ~伸びる企業と苦戦する企業を分ける1つの違いとは?~」と題して、ご講演いただきました。中小企業を決定的に決めるのは何かというと、端的な一説は社長が中小企業の方向、あり方を決定するうえで非常に重要なはたらきをするということを言っておられました。副題が「伸びる企業と苦戦する企業を分ける1つの違いとは?」ということでしたけれども、中小企業を大学という言葉に入れ替えてみた場合、大学として伸びる大学と苦戦する大学の1つの違いは何かということを重ね合わせて、大学は学長で決まるとレジメのどこかに書いてあるのではないかとひっくり返して見てみましたがそのことは書いてありませんでしたので少し安心しました。大学は学校法人ですから、もちろん企業と違うわけですけれども、高島さんはどこかで私にそういう問いかけをしているのではないかと感じ、その夜は少し眠れませんでした。私が大学を決めると言われてしまうとちょっと明日から心配して大学へ行けなくなってしまうのではないかと思ってしまいました。むしろ圧倒的な多くの教職員の方々に支えられ、多くの学生諸君の日々の学びの姿勢に支えられる。そういうことによってこそ私は一定の任期のもとで職務を務めさせていただいているのではないかと思います。
大学も今月、「龍谷メガソーラ」の設置や、町家キャンパスというものを開設することが決定しましたので記者発表することになっております。町屋の方は京都市長と一緒に発表することになっておりますけれども、大学もいろいろ課題があって、できることを率先して取り組んでいきます。その心持ちの一番のもとは、私たちにとっては浄土真宗の精神、建学の精神をもって決して奢ることなくうぬぼれることなく、やわらかな生きる姿勢を持ちながら、歩んでいくことだろうと思います。
12月に入りまして一段と寒さが厳しくなっております、もうしばらくで年の瀬、そして新しい年を迎えますので、皆さまにはお体ご自愛ください。
ようこそのお参りでございました。