10月の法話 2013年10月9日(水)/深草・顕真館
大学は後期の講義が始まり、ほぼ20日ほど経ちました。大学には一定の期間休暇があります。学生諸君も長い夏期休暇があります。一般に学生諸君といっても、それぞれサークルに入っていたりすると、その中での合宿があったり、ただちにそのままが休暇にはならないと思います。教職員の皆さんも夏期休暇とはいえ、教員であればそれぞれの研究テーマに関わる時間をその期間に費やすということもありましょうし、また職員の方にとっても大学の職員としての休暇であればこそ習得すべき、いろいろと学ぶべきことの時間としてその時期を過ごされることもあろうかと思います。
私は9月の第1週目と第2週目に夏期集中審議があり、会議が本格的に始まりましたけれども、その間の9月9日、10日の両日に学部の三回生ゼミの合宿を奈良の飛鳥で行いました。2年ぶりの飛鳥での合宿でありました。ご承知のように明日香村というところは山里の囲まれた地域で、古代の様々な遺跡がありますし、建造物も多くあります。学生15名と一緒にいわゆる自転車でのツーリングをしながら高松塚古墳であるとか、あるいは石舞台であるとか、欽明天皇陵や天武持統天皇陵だとか、甘樫丘に上がって大和盆地を南の方から北に見るという非常に天候にも恵まれましたので良い合宿ができました。ただ、私は学生と一緒に通常の自転車を漕ぐにはあまりにも高齢化しておりますので、最近は便利なアシスト付き自転車というものがありまして、私だけアシスト付き自転車を使いました。普通の自転車であれば最後列を走るか、はるかに置き去りにされると思いましたけれども、幸いに便利なアシスト付き自転車に乗れば先頭を走れるという便利な時代になりました。高齢化にあわせて新しく開発された自転車というのは、技術を生かした自転車だなと思いました。
ところで、こういう学長法話で常々申しあげていますのは、一つは、この顕真館の正面に刻まれてある親鸞聖人が84歳のときに書かれた「南無阿弥陀仏」という名号のいわれ、意味というものを我々も皆様方もぜひ共々に解釈しながら、そのはたらきを感じ取り、また、わが身と重ね合わせて受け取っていただきたいということであります。阿弥陀仏というはかることのできない無量の智慧と慈悲の仏さまのはたらきに、私たちがそのはたらきの中にあるということに気づかせてもらい、あるいは知らせていただいてそのことを頷いていく。あるいは受け入れていくという中に一人ひとりが念仏を称える身となる。念仏は自分の外にあるかのように思われるかもしれませんが、念仏はわが身にすでにはたらいている、そのはたらきを感じ取って、自分の口から称える「南無阿弥陀仏」という念仏がある。そうするならば、その私も仏さまの世界というものが一見、私から遠く離れた世界であるかのように、自分とは対象的に考えてしまったり、そのようにイメージしてしまうわけですけれども、そうではなくて、すでに仏さまの世界の中に抱かれて私がある、このように受け止め直しをしていけば、私たちのそれぞれが考えているいままで抱いていた常識あるいはイメージというものも刷新されて、改めてその念仏、あるいは本学の建学の精神が私たちとはかけ離れて遠い所にあるのではなくて、この私の所に建学の精神がはたらいておるものだと、このように受け止めなおすことができるというのが、こういったお参りのご縁といっていいのではないかと思います。そういう意味で本学に関係する多くの方々が、共々このお念仏の心にふれてみて、お互いを敬愛する尊敬し合う人間関係として培える職場環境あるいは大学環境でありたいと、このように思うところでもあります。
現代社会に対する様々な疑念というか問題点は、多くの方々が指摘されています。たとえば学ぶ分野でも自然科学とか経済学とかありますけれども、最近読んだ本の中にアメリカのマーサ・C.ヌスバウムという方の『経済成長がすべてか?―デモクラシーが人文学を必要とする理由―』(岩波書店)があります。経済成長が日本でもすべてであるかのように語って、その経済成長にかかわる言葉、経済成長であるとか価値とか効率性とかそういうものの価値に囲まれているのではないか、しかしながら私たちに大切なのは、学ぶ分野としては人文学の分野であってみたり、芸術の分野であってみたりするところがなければ、人間の想像力あるいは現状に対する批判的な思考力、そういったものが培われないのではないかという指摘をして、社会を凝視してどういうあり方が望ましいことなのかということを指摘しています。
あるいは、中村桂子さんという大阪の高槻市にJT生命誌研究館という学術施設を作っている方も『科学者が人間であること』(岩波新書)を出しています。これも、つい最近読んだ本の一冊です。中村さんは生物学といいますか生命科学を追究してきた女性研究者ですが、一昨年の3.11の大震災をとおして、何を改めて考え直さなければならないかという問いかけをしています。それは科学者であるとか科学技術者であることと、自然との関係をもう一度見直す必要がある。特に人間と自然との関係を見直すことが大事であって、そのことによって戦後歩んできた日本社会の問題点や現状も明らかになっていくと指摘しています。そこで中村さんがキーになる言葉が見いだされるのは、哲学者の大森荘蔵という方が示された、自然とか科学分野と私との関係を考える場合に重要なのは「重ね描き」ということです。「重ね描き」で物事を考えてみる、自然と人間を理解をしてみるという方法です。これは、スポーツでも試合でプレーしている人と観客席で応援している人とがそれぞれ分かれていますが、サッカーにしても野球にしてもスタンドの観客とグランドあるいはコートでプレーしている人とは位置関係が違うわけです。その際、プレーしている人を見ながら観客席の人は熱心に応援するにしても、それは自分との関係を隔絶して応援するのではなくて「重ね描き」をとおして応援するのが応援席の人には大切なことではないかということです。観客席の人はプレーを直接コート上やグランドでしないにしても、プレーしている人との「重ね描き」によってこそ応援というものが成り立つのではないか。そうでなければ観客席の人がそれを隔絶した世界の向こう側に追いやっていくと、そのプレーを見ながら観客席から見る目線から、自分がどっしりと座ったところから見る。いってみれば無責任な発言も出てくるでしょう。野球場に行けばさまざまな野次とかが失策をするとそのことを厳しく指摘するような声というものがあるのですが、その際に大切なのはそういう「重ね描き」ということによってこそ、物事というのはコミュニケーションや交流が成立するのではないかということだと思います。
私たちも、人間と自然の関係といったものについて対照的に向こう側を観察するのではなくて、それを「思い描き」ということが重要だといった指摘の仕方なのです。 そういう指摘の仕方も最初に申しあげたように、阿弥陀仏とか仏さまの世界というものと私とが、それを隔絶したものとして分け隔てて考えずに、それを「重ね描き」で受け取ってみるということをしていけば、仏さまのはたらきというものが今まさにいのちめぐまれているこの私と、このみずみずしい毎日毎日のいのちのはたらきがこれほどすばらしいものはないのではないかと思います。あるいはお互いいのち恵まれて今日という日を出会っていることが、これほど有り難い尊い恵まれた出会いが、あるいは出会いの喜びはないのではないかという、そういう意味での一日の喜びというものも、「重ね描き」というような受け取りの方の中から生まれてくるものではないかと思いました。
それから7月に発行された『柳宗悦―「複合の美」の思想―』人見真理著(岩波新書)も最近読みました。皆さんご存じのように陶芸の世界があります。たとえば京都では清水焼とか、あるいはそういう焼き物でも江戸時代のいわゆる藩が作ったような焼き物もあります。しかしもっと日常的に使うような道具・容器の美を見いだしていく、そういう動きを高く評価してそれを作り上げていくような取り組みをした方として知られている柳宗悦は、民芸運動を創始し、東京に「民芸館」があります。バーナーと・リーチや浜田庄作、河井寛次郎、富本憲吉らと交流された方です。
その中に引用されている言葉があります。それは柳さんが1919年に書かれた『宗教とその真理』という文章の中で記された「野に咲く多くの異なる花は野の美を傷めるであろうか。互いは互いを助けて世界を単調から複合の美に彩るのである」という言葉です。 単調というのは考えがちなのは一色、一つの色で世界を見る、一つの色を基準にして花の美の善し悪し、好悪を見ていくということよりも、それぞれの花がそれぞれに咲きながらお互いがお互いを助けて「複合の美」というものによって彩られているのではないか、こういうキーワードなのです。
これも今の世界の現実から言うと、いわゆるグローバル化という動きがあるように、世界のいわゆるカジノ資本主義、あるいは金融工学に基づく一つの資本主義のグローバル化によって一色とか画一化とか均質化という動きが経済領域でも進んでおりますし、日本の大学にもグローバル人材を育成してもらいたいということが財界の指導者からよく語られます。
そういうグローバル人材といった場合に、そこに求められる人間像というのが一つの色で固められているような人間像が描かれているように私は理解するのですけれども、柳さんという方はむしろ、複合の美というものに言われているところに人種、地域、国とかあるいは文化というものの多様性というものを積極的に認める中で現代社会のあるいは世界の平和というものを構想していくことを謳っている内容であります。
これも「複合の美」というキーワードが私たちにとってはそれぞれ命のはたらきとしては同じようなものですけれども、一人として同じ人が存在しない、それぞれがそれぞれに個性を持ち、それぞれ姿形が違ったものを持ちながらも、それぞれがそれぞれの色として輝いて、それが全体としては複合の美として輝いている美を見いだしていくというのが、そういう見いだし方だと思うのです。
これは人間関係一人一人の相互の関係においても私たちはつい一色の中で見てしまうものを一方で持ちながらも、少し方向を変えてもう一度ながめ直してみれば、やはり一人一人の違いがあり一人一人の色合いが違い、自然においても香りがあったり、手触りが違ったりする。そういったものが必ずしも数値だけでは感じ取ることはできない、だからお互いがお互いとして姿形、あるいは色合いも、そしてまたそれぞれ語る言葉もそれぞれの違いがありながらも全体として複合の美として彩られるような、私の立場からいうとそういう大学の構成員であってほしい、あるいは学生相互の間もそのようなありかたをお互いが認め合っていくような大学であってほしいと思います。
以前、入学式・卒業式でも紹介させていただいたこれも引用の話ですけれども、長田 弘さんという詩人がおられます。この人も先ほど申しあげたように一昨年の3.11という大震災をとおして、あらためて一日を見つめるという、そういうきわめて短い文章を書いたものが岩波新書『なつかしい時間』に収められているのです。それを紹介して終わらせていただきます。
けれども本当にそうなのだろうか、そういう一日の作り方、時間の使い方というのは違っているのではないか。そうではなく、朝が明けて、陽が高くなって、やがて日が暮れるというふうにだんだんと変わってゆく何でもない一日が、平凡過ぎて退屈なだけの一日どころか、本当はとんでもなく大切な一日であり、ありふれた奇跡と言っていいような、かけがえのない一日であるということ。そのことを、いまさらながらはっきり思い知らされたのは、今年の東日本大震災と、それからの日々だったと思うのです。」
このような文章の一節です。私たちも本当にきわどい一日一日のいのちをいただいているといことを深く受けとめて、一日を見つめながら大切に日々を過ごさせていただく、このことが、最初に申しあげましたように阿弥陀仏のはたらきというものに出会っていく意味でもあろうかと思います。
私たちの身にいただいておる時間はいうまでもなく限りがあって、有限性があります。「有限性」という言葉もきびしい言葉ですけれども、そのことも頭の中にしっかりと刻み込んで毎日毎日を大切にして過ごさせていただきたい。そういう大学生活を学生のみなさんには過ごしてほしいという願いがあります。
今日、何人かご紹介をいたしましたけれどもその言葉につながる源は、この正面に刻まれている「南無阿弥陀仏」のこころを私たちが受け取っていくところに中心があると受け取っていただければ幸いです。