7月の法話 2014年7月8日(火)/大宮本館
おはようございます。
今朝の天気予報を見ていると、かなり猛烈な台風が宮古島の方を襲ってきています。この台風(11号)の予測通路を見ますと、明後日の木曜日くらいでしょうか、近畿地方にもやって来そうに思われます。心配が募ることであります。
ところで、大学執行部は毎週木曜日に「部局長会議」という会議を開いていますが、学生サークルが優れた成績をおさめられ際には、会議の前にその報告をいただく機会を持ち続けています。
先週は男子バレーボール部が西日本インカレで優勝し、女子バレーボール部も西日本インカレで2位になったと報告いただきました。各サークルがどのような活躍をしているかを学生から直接聞いて、私どもも大変嬉しく思っているところであります。関西や西日本規模での大会で優勝とか2位という好成績をおさめるのは、学生が並大抵ではない努力、練習を積み重ねていると容易に察することもできますが、同時に指導をしていただいている監督・コーチの素晴らしさにも感謝しているところであります。日頃の努力という点では、サークル活動だけに留まらず教育の場においても同様で、学生の能力を引き出し、高める努力を教育力の向上あるいは充実に向けて大切にしなければならない課題であると思っています。
先週の土曜、日曜(7月5日・6日)に、この大宮学舎で本学アジア仏教文化研究センターが国際シンポジウム「日本仏教行方 その可能性」というテーマの下で2日間、各4人ずつ8人の研究報告、提案、提言とそしてまたシンポジウムが開催されました。私も2日間ともほぼ全日程に参加いたしました。私は現状では会議・出張などの職務に制約され、案内をいただいても学術系のシンポジウムや研究会に参加することは難しいのですが、どうにか日程が取れて、普段あまり思考回路が働かないところが大いに刺激を受けたことでした。
2日目のシンポジウムにコメンテーターで参加させていただいて、整理できない思考の回路をもう一度締め直すための良い機会を得たと思っています。8人の方々もそれぞれの分野でご活躍の方で、私自身もそのうちの4人の方の著作を以前に読ませていただいた方もいらっしゃいました。そういう先生方の話を直接聞くことも、著作とはまた違った印象というか、見方にも気づかせていただいたことでした。
私は、日常的には早起き早寝の生活で、午前5時くらいには起きますし、夜は10時過ぎには寝るという生活をしております。ところが、この6日の日曜日は夕方の6時頃に帰宅したのですが、その夜は寝付かれずに午前3時か4時くらいまで何となく脳細胞に火が着いたようになってしまってなかなか寝付かれず、4時過ぎにようやく床に就いたというようなことでした。皆さんも非常に刺激的な体験をしてみたり、緊張するようなことがあれば、床に就いてもどこか昂奮状態を続くと寝付けないということもあろうかと思います。
さて、最近、佐藤優(さとう まさる)さんという方が書いた『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』(生活人新書/2009年)という本を読みました。これは仏教を考えたり、私たちが建学の精神を考えていく場合にヒントになることが書いてありました。
この佐藤さんは同志社大学の神学部の出身で、大学院を出て外務省に入り、外交官としていろいろキャリアを積み、モスクワの日本大使館員として勤められた方ですが、ある出来事をきっかけに辞職され、現在は文筆業をされています。
その本で、近代という時代の到来に伴って、“見えない世界”に関することが捨てられていって―本の中では「捨象されて」と言っていますが―、忘れられてしまって、“見えない世界”について論理的に思考することが苦手になってしまった、という指摘があります。
この“見えない世界”について近代の多くの人々が苦手になって、最も懸念されるところは何かというと、それは我々自身が必ず死んでいくことだと。そしてまた、多くの人もいつかは必ず死ぬことが予想されることを漠然とは考えているので、そういう意味で、人はいつの世においても死について、いのちの根源的なことに不安を抱えているものだと。ところが私たちは、日常的にはなかなか死について考えない。しかし根源的な不安感というものを抱えて存在しているのではないか、と。
現にミクロの世界では、多くの人々が指摘しているように、私たちの細胞が毎日毎日、絶えず死んで、新たな細胞が生まれるということを繰り返すことによって身体を維持している。毎日数え切れぬほどの細胞が死に、新たにどれだけの細胞が生まれているか―しかし、なかなかこれを自らのこととして感じられない。
私たちがそういう意味で“見えない世界”についての不安、特に死について根源的な不安を抱えている―。そいうことから考えれば、やはり“見えない世界”と言いながらも、もう少し深く、例えば「いのち」というものを考えてみる必要があるのではないか。あるいは、広く「宗教」というものを考えてみる必要があるのではないか。しかしながら「宗教」とか「仏教」ということを観念として直ちに自らと切り離して、自己と無関係な外側に追いやってしまうという現代人が多いのではないかと指摘しています。
一方では「自己啓発」などと言って、「宗教」とは言わないけれども実質的には宗教的な要素を持つようなセミナーと言った所に多くの人々が関心を寄せて、自己というものをどこかで変えたいとか、変身したい、という願望を持っていることもよく指摘されています。
その願望の基には自分自身への不安感―多くの人々からよく見られたいとか、あるいは評価されたいといった、外に、社会に適応していくようなものへの願望や心情を持っているから、「宗教」とはならないけれども、そういうことへの関心が広がっている、と。佐藤さんが指摘しているのは、しばらく前はテレビなどで例えば『オーラの泉』(テレビ朝日2005~2009年)などという番組がよく見られ、いわゆる“スピリチュアルブーム”という現象が起こったことも、隠れた形で現われている「宗教」ではないかと。
こういう現代人の不安感というものは、一方では私たちの時代が、時代としては豊かになったということです。豊かな時代になって、そのまま経済が成長すると同時に、物質的な豊かさ、そしてそれを求める欲望もまた際限がなく拡大している。これらのことを裏返せば不安感というのを醸成しているのではないかということを、これも最近読んだ渡辺京に(わたなべ きょうじ)さんが『近代の呪い』(平凡社新書)の中で同じように指摘されています。
便利さという点から言うと、次から次へとさまざまなものが、技術が改良されて出てきます。渡辺さんの本を読んでいると、「便利さのバカ化」―これは渡辺さんの指摘ですが―これほどの便利さを与えられるままに享受しているのかということです。例えば、外のお店などのトイレのドアを開けると―こんな所で失礼ですが―すぐ便座の蓋がパッと自動的にあがるようなお店が増えていますね。人がトイレに入ってくるとセンサーが感知して蓋が上がるという仕組みです。こういう、トイレの蓋の開閉さえも機械にやらせる、それが豊かさなのか?ということを渡辺さんは指摘しているわけです。 私たちも、この「豊かさ」といわれる時代の、そういうものの中味を、立ち止まって深く考えてみる、見直してみるということが必要だと思います。
私たち自身の抱える「いのち」というものの根源を尋ねていけば、建学の精神から言えば、阿弥陀仏という仏さまの智慧と慈悲、そのはかることのできな智慧と慈悲のはたらきが「既に」私にとどいているということです。仏さまのはたらきは既に私たちにはたらいており、そのはたらき気付かないようにしているものは、「私」というもののベールを先にかけ、ガードを固めているということ、私があることを前提として、実体としてしまい、そのはたらきを遮っているのではないか―。
したがって「私」というものも、「私が」こうする、ああすると言う、その「私」の壁を相対化し、少し取り除いて、改めて問い、見つめ直していけば、そこにはかることのできない智慧と慈悲が既にはたらいていることに気付き、そしてまた私には今、いのち恵まれていることと、死するということとの境界というのは「入息出息」のきわであり、死とは決して遠く離れたものではなく、今、いのち恵まれているという発見の中で、同時に、直ちに死すべき身であるという両面をしっかりと見つめることが大切なことではないかと思います。
そうすれば浄土といわれる世界は決して「死んでから」とか言うような、悠長な「~から」というレベルのことではなく、既にいのち恵まれているものと、死するものとの両方を見つめられるような視点を育てられていけば、いのち恵まれているお互いが縁あって出会い、顔を合わせて生活している、今日出会っていることがどれほど尊いことなのか、有り難いことなのかということへの気付き、目覚め、またそういう心が自ずから育てられていくものだと思います。
私たちは、生きていく歩みの中でいろいろな出来事に遭遇します。時にはどうにも為し得ようのない、努力しても突破できないと思わざるを得ないような状況に直面することがあります。絶望の淵に立つ時もあります。奈落の底とも思い、真っ暗闇とも思うこともあります。
私たちが真っ暗闇だと思い、歩き出せる方向が見出せないのではないかと思い込んでいても、そういう状況だけに執われずに、一歩前に進んでいける道があるのではなにかと。むしろ私たち自身が自ずとどこかで抑制し、制限をかけ、私という殻に押し込めてしまう―例えば“他に道はないんじゃないか”“無理じゃないか”と、むしろ努力を抑制してしまう。あるいは、自分自身をどこかで活かすこと、活かし切ることを惜しんでしまう、ということがあり得るのではないでしょうか。むしろ全力を挙げて、できる限りのことを精一杯やり遂げて、結果はともあれ努力を積み重ねることが大切なことだと―。
私も学長という立場にいて、「いのちを大切に」「限りないいのちをいただいている」と、そのように思っていろんな所で話をするのですが、最もつらく悲しいのは、学生が在学中に自らいのちを終えてしまうという報告を受ける時です。さまざまな悩み、いろいろな苦悩を抱えて、自分の歩んでいく道が見出せずにいのち終えてしまう―後から報告を受けるのですが、このようなことが最もつらく、悲しい報告なのです。
そこへ到る前にいろんなチャンネルを通して相談したり、自分自身の存在を見つめる。あるいは見つめてくれる人がいることを知り、相談できる人が常にいる、どんな状況が厳しくとも、支えてくれる人が必ずいる、あるいはこの私を見つめ、はたき続けてくださる人がいる、そういう開かれた世界、窓口を常々持ち続けていかなければならないのではないでしょうか。
これからの生涯、どれほどいのち長らえようとも、人生には困難なことが多々あります。それを乗り越えていく道があることを私たち自身が深く気付かせていただく出遇いが仏教―お釈迦さまの教え、あるいは親鸞聖人の教えにほかならないのだろうと思います。
そういう意味で、私たちのこの時代もいろんな困難が多々あると同時に、人との出会いによって自分自身がこのように歩んでいける道が開かれてくるということも大いにあり得ることであります。
いつの時代もそうですが、今日もまた非常に厳しい、変動の激しい時代であり、日本国内も随分と政治的にも変貌しつつあります。そういう時代をしっかりと見つめながら、一人ひとりにとっては限りないいのちに恵まれているということ、建学の精神の言葉で言うと阿弥陀仏のはたらきがある。さらに言えば、先にいのち終えた人びとが阿弥陀仏のはたらきによって仏になって、この私に「あなたは独りでありませんよ」と喚びかけ、「あなたのいのちはあなた一人のいのちではないですよ」と、開かれた世界に気付かせていただく。そういう出遇いに恵まれていくのではないかと思います。
先週から今週まで、改めて私も学術研究の役割、その知見に出会わせていただいたり、また学生の皆さんの日頃の努力の成果を報告していただいたりして、それらを自分自身と重ね描くことによって、新たな気付きということを得させていただいて感謝致しています。
本日は、日頃より早くお参りいただいたことにお礼を申しあげ、法話とさせていただきます。