学長法話

12月の法話 2014年12月2日(火)/瀬田樹心館


お早うございます。
瀬田キャンパスも12月に入りまして、紅葉はほぼ終わりかけております。特に12月に入って一段と師走にふさわしい寒さが到来しています。一昨日の日曜日くらいまでは11月の末日としては暖かな日がありましたけれども、いよいよ本格的に寒くなってきたような感じがいたします。それに応じて、私たちの方も身支度をしないといけないなと思ったりもいたします。私の住まいは奈良県宇陀市の山里です。標高が約380メートルのところですので、先日も冷え込んで薄氷が張っていました。来週には車のタイヤをスタッドレスに替えて、冬準備をしておかないとと思っているところです。


私たちの大学は、親鸞聖人の精神、あるいは浄土真宗のみ教えを建学の精神としております。いつの時代においても、仏教、お釈迦さまの教えがどういう教えなのか、あるいは親鸞聖人のみ教えがどういう教えなのか、ということを明らかにしながら、そしてまたそのことが、私のあり方とどう結びついていくのか――、常にそういう問いかけを意識しながら歩んでいくのが、私たちの大学の基本になると、このように言っていいだろうと思います。

一方では、一般的によく指摘されますように、「近代的な自我」という言い方はヨーロッパを中心にしてよくいわれます。デカルトの『方法序説』にある「我思う、故に我あり」――。すべてを疑っている「私」の存在だけは疑えない、という自我の出発点は、〈私〉があることを自明の前提にしながら、そしてその中でさまざまな知識、力を、自ら習得していく。そしてまたそれを広く発揮していく――。そういうところに、個の存在、力がある、というふうに一般的には考えている傾向があろうかと思います。

その際には、〈私〉と〈他者〉、私と私以外の人との区別を明確にしながら考えて、同時に社会の構成というものを考え、科学技術が進展とともに、人工的、機械的な社会像、世界像を構想し、それ具現化する。そして人工的あるいは機械的な世界像の具現化にともなう矛盾・軋轢・対立が生じると、パーツとしての部分の修正あるいは取替え、改善、改革をしながら、社会を考える。このような方向が基本になっている。このように指摘されます。

しかし、仏教の本質的なものは、〈私〉というものがどうなのか。〈私〉はいったい何なのか、ということです。そういう問いかけをしてみた場合に、例えば『阿含経』という経典の中には「雑阿含(ぞうあごん)」という部分があります。そこでは、文脈で解りやすく言うと「肉体の色(しき)は無常である」とあります。「常が無い」ということ「無常はすなわち苦である」、常に変化することは苦である。「苦」というのは、私の思い通りにならないということです。「その苦はすなわち非我である、あるいは無我である」と。つまり、私の思い通りにならないことは〈私〉ではない。このような文脈でいう問いがあるわけです。私の色(しき)としての肉体は、常に無常である。変化し続ける――。

私たちも日々老化していっています。それを少し長いスパンで考えると、肉体も私の思い通りにならない形で、変化し続けていっているわけです。ですから、色(しき)は変化する。体は変化する。変化するということは、私の思い通りにはなっていかない――。中には“ジムへ行ってトレーニングしているから”と言う人がいても、やはりそれは、思っているその通りになるわけではありません。しかし、その無常であること、そして苦であることは、〈私〉ではない、非我である。

その「非我である」というのは、一体何だろうかということです。我でないものは何であろうか。それはやはり〈私〉の力とか思いとか、そういったものによってはたらいているものではない、ということに気づいていく。あるいは目覚めていくのが真実である、真(まこと)である――。

このように、一つの流れのなかで徹底して考えてみた場合に、そのことに目覚めていく、気づくのが、仏教の教えであるのです。

これを知識として学んで、どれだけ習得してそれを説明したからといって、その説明した人がそのようなことを自ら、さまざまな経験のなかから、その通りだ、真実だと頷けるかどうかは、イコールではないわけです。

だから、知識として習得していくことは、詳細に説明することは可能なものとなるけれども、そのことは同時にその人が、そのようなはたらきに目覚めることとはイコールではない。やはり徹底して考えるなかで、もう一歩踏み込んで、〈私〉は、我に非ざるはたらきによって、〈私〉と称して、今いのちを恵まれている――。

そこのところの表現は、いのちを恵まれている、いのちのはたらきの中に、恵みの中に〈私〉がある。そのいのちの恵みのなかに〈私〉があることは、全ての人々も同じように、そのようないのちの恵みのなかで存在をしている。そこに、全ての人々との、言うならば尊厳、尊さを見出していく大切さがあるのだ、と。そういうふうに考えていく、一つの道筋に出会う――。

そうすれば、易しい言葉でいうと、私がいかに業績を挙げようと、どれだけ立派な論文を書こうと、あるいはそれが高く評価されようとも、基本的にはそういったはたらきの中にある〈私〉であることにおいて、傲慢さ、驕慢さ、うぬぼれ、といったものから離れることができて、同時に謙虚であり続けることができる。あるいは他者に対して、優しさを保つことができる。あるいは他者の痛みを解るような人間としてのありようを開くことができるのではないか。こういうふうに結びつけることがあろうかと思うのです。

真宗でいうならば、阿弥陀仏のはたらき、あるいは他力のはたらき、そういう言葉で表現するものです。阿弥陀仏――量ることのできない光といのち、量ることのできない智慧と慈悲のはたらきが、この〈私〉にはたらいている。全ての人々をそのはたらきの中で必ず仏にならしめたい、仏にさせたいというはたらきが名乗って、阿弥陀仏というその名を名乗っている。仏さまという阿弥陀仏という存在が、どこか向こう側にあるという発想ではなくて、そういったはたらきを知らしめるところの名乗りが、阿弥陀仏という仏の名乗りだと。こういう思惟、考える道筋をしっかりと身につけていくのが、私たちの大学の一つの理念、骨格ではないか。

阿弥陀仏のはたらきの中で名乗られ、そういうことを気づかしめるようにはたらいているものだと解れば、木像の仏像に向かって礼拝する場合も、それは対象として向かい合いながらも、仏像として表現されている阿弥陀仏を通して、気づかしめるはたらきに出遇っているものだ、と。決して偶像という形で考えるわけではない。それははたらきを示そうとされているものとして表現されたもの――こういうふうに考えて、私たちは礼拝をしている。そういう態度、姿勢が生まれてくると思うのです。

そうすると、一般的な多くの人たちの宗教観として、宗教というのは、自分の願い、思いを叶えてくれる対象として仏あるいは神がある、さまざまな神仏がある、〈私〉がここにいて、向こう側に、私の思い、願い、さまざまなものを叶えてくれるものとしての神仏があるという受け取り方ですから、それとは決定的に違うところがあると思います。

本学が掲げる仏教あるいは浄土真宗にしても、そこが祈祷や祈願をするような宗教の内容とは異なるのです。従って、私たちはそれぞれが、できるだけの努力を精一杯しながら、仏の道を歩んでいくのだと言っていいと思うのです。

また同時に、私たちは自ずと、有限の中で人生があります。有限ということは極めて不条理なことかも分かりません。しかしながら、限られた中で、どういうことを為していくのか。あるいは限られた中で、それぞれ人の出会いがあるならば、今こうして、職場でお互いが出会ってくるような出会いも、限られた中での出会いとしてあるならば、日々の中で、毎日が何気なく流れていくような出会いかも分からないけれども、それが極めて稀な出会いであり、その中で親しくさせていただく機会ではないか――。

このように見直してみて、人の出会いを喜びとしていく。そういうものではないだろうか。日常の意識の延長上で、同じ状態で固定して、永続していくものとして考えてしまうと、日々の出会いを疎かに考えてしまう。いずれまた出会うことがあるのではないか、先送りいしてしまう。いのちのある種の有限さというのは、極めて限定するならば、よく言われるように、一息ひと息、息を吸い込み、息を吐くこと、呼吸の出し入れのところに、一瞬、一瞬、それぞれのいのちの際(きわ)というものがある。

そういう際というものまで、私たちがどこまで意識できるのか――。これはなかなか厳しい、難しいものですけれども、しかしそういうことさえも、私たちの頭の中に入れておけば、日々の中で、いつ、どのような形で別れるかも分からない――そういう悲しさを伴うような現実も、私たちの人生には含まれている。そうであるならば、出会っていることを、親しくしてみたり、あるいはお互いの心を受け入れていくような間柄を作り出していくことが、そういう建学の精神から導かれていくような態度、姿勢ではないだろうかと思ったりもいたします。

日本の社会について、ずいぶん多くの人が指摘されているのですが、もてはやされた日本型経営がバブルの崩壊でに見直され、アメリカ型の新自由主義が席巻する1990年代の半ば以降から、日本社会のアメリカ化が、さまざまな形で、しかも極めて商業的な形で進んでいると思います。その私たちの日本社会の中で、きわめて大切にされてきたこと、逆に言うと、今、少しずつ見失われつつある事柄を、私たちは伝統というものの中から、もう一度掘り起こしてみて、現代という社会のなかで再生していく。もう一度、息を吹き返していくような努力、そういう営みをより一層、高めていかなければならないのではないだろうか。このようなことを考えたりもします。

特に本学の歩んできた道が、現代社会においても、きわめて大きな意義を持っているものであって、こういう考え方を広く社会に広めていく、多くの人々に、そういう考え、教えに出遇っていただくべく努力をしていくことが、本学の存立する大きな使命だろうと考えたりもいたします。

今日も、皆さまとご一緒に朝のお参りをさせていただきました。年の瀬を迎えて、昨日も新聞を見ていましたら、クリスマスの服装でクリスマス・マラソンをしている記事が出ていました。12月8日は、太平洋戦争の開戦の日でありますけれども、一方では「成道会(じょうどうえ)」――お釈迦さまがお覚りを開かれた日であるといわれます。そういう日であることは、10人に訊けば1人は憶えているかどうかという程度のことだと思いますが、12月8日はお釈迦さまがお覚りを開かれた日であり、そしてそのお悟りとは何ぞやということ、そしてお悟りは闇、迷いと悩みのまっただ中をあゆむ私たちに何を気づかしめるものかを一人ひとり、考えさせていただければと思うことでございます。

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