学長法話

10月の法話 2015年10月27日(火)/瀬田樹心館


おはようございます。
秋もいよいよ深まりをみせ、この瀬田キャンパスでも連日の晴天の中で、木々の葉が色づいています。朝早く訪れますと、木の葉がきれいに散っているところが見受けられます。つい先日、土・日曜日には、この瀬田キャンパスで学園祭が開かれました。今週も30日から深草キャンパスで「龍谷祭」、「学術文化祭」が開催されます。

私たちはそういった年間の行事を繰り返しておりますけれども、一方では、私たちが今生きている現実のありさまがあり、そしてまた私たちが直面しているさまざまな課題をもった日本の現実がありましょう。またニュース報道で見られるように、中東、特にシリアからヨーロッパに向けて難民といわれる人たちの長い旅が連日、続いています。シリアでも400万を超える方々が国外に出ている現実があります。私たちはニュースを通して、その現実の一部しか知ることはできませんけれども、まさに凄まじい、一人ひとりの、“いのち”を懸けた旅が続いていることでもあります。

私たち日本の現実について、統計的な数字は皆さん方もご承知のとおりです。労働状況については必ずしも、諸手を挙げて望ましいと言えるような現実ではありません。全労働者の約40%、約2,000万人の非正規雇用者がいます。給料が少なくて、退職金あるいはボーナスが出ない。そしてまた同時に、年収も200万円あるかどうか――そういった方々の数は、数値で表わされますけれども、同時に一人ひとりが、“いのち”恵まれた存在としてありながらも、そういう雇用状況、経済状況があるということも、私たちの視野から、遠ざけてはならないことだと思います。
同時に、私たちの身近なこととしては、2011年3月11日の東日本大震災からもうすでに4年近くが経ちます。そういった事柄の中においても、よく取りあげられている東京電力の福島原子力発電所の事故による放射能汚染という問題からも目をそらしてはならないと思います。
そういう状況の中で、私たちは大学を取り巻く近代のいわゆる科学、学問のあり方、あるいは私たちがこの間に何をつくりだしているのか、そういうことについての科学的な認識を改めて持つことが必要かと思ったりもします。  その際に、時代社会が進んでいくと、宗教といわれるものが、人々にとって必ずしも重要なものではない時代が来るのではないかと、このように単純に考える人が多いかもわかりません。しかしながら、いつの時代においても常々、何が本当であるのか、何が大事であるのか、そういった問いかけをしなければなりません。例えば、私たち一人ひとりの身にそれぞれはたらいている“いのち”をどのように受け取っていくのか、というようなことだと思ったりもします。
それを対象的に、科学分析的に洞察していくことも大切かもわかりません。しかし、だからといってそれで、“いのち”ということについての目覚め、気づきが成立するかと言えば、成立するわけではないだろうと思います。分析的、科学的に明らかにできる事柄がより一層、精緻に、より詳しく明らかにできることは、今後も可能性としては様々な分野で広がっていくのだろうとは思います。しかし同時に、一人ひとりの身にはたらいている“いのち”を、どう受けとめていくのか、どのように目覚めていくのか。その手がかりは、すでに2500年前にお釈迦さまが開かれた教えをしっかりと学び取り、考え抜くことであり、それを通して、自分たちが考える別の道筋に目覚、気づいていくことです。
普段、私があることを前提にして、私を起点に対象的に考えがちでありながらも、まったく違った方向から、根底からの“いのち”の問いかけに気づく、ということだろうと思います。
そうするならば、私においてはたらいているいのちは、私の意思とか力とか、私の思いのままに操作するようなものとしての“いのち”ではなくて、それは阿弥陀仏のはたらき、つまり智慧と慈悲のはたらきの中で、“いのち”がはたらいていると、受け取ることができる。それが何をもたらすのかといえば、私を単純に肯定し、自明視しているが故に持っている自惚れとか驕りとか、あるいは“いのち”を、〈私〉という思いで独占するような生き方を砕き、柔らかくして、利他の生き方が開かれていく。
そういった人間の生き方が新たに開くことを通して、何が生まれるのかというと、それぞれの、〈私〉以外の人たち、生きとし生けるものが尊い、かけがえのない、“いのち”をもった存在として、同じ輩(ともがら)として生きている者同士の人間関係を開いていく、このように転じてものを考えていく目線、考え方、生き方が誕生していく。それが仏教の教えに出遇うことであり、私たちの大学の建学の精神に出遇うことでもあります。

私たちは、いろいろな学びを通して知識を習得し、そのことを説明する言語、確かな知性を身につけていくことはもちろん大切ではありますけれども、ただ論理的に合理的に分析的に述べ、説明することに終始する知性のみでは、いわば自分さえ良ければ良いという自己を問うことはできません。従って恵まれたいのちのはたらきを自己の身に、自己の心に感じ、目覚め、気づいて、その尊さ、ありがたさに感じ入ってみるということだろうと思います。

先ほど言ったように、日本国内でも2,000万人という非正規雇用の実態があります。皆さん方もご承知のとおり、明治末期に石川啄木という詩人がいました。彼の作品には、有名な歌集『一握の砂』とか、『時代閉塞の現状』という評論もあります。少し前に、たまたま本棚にあった『一握の砂』を読みました。その中にこういう歌があります。

「たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽(かろ)きに泣きて 三歩あゆまず」

戯れに母親を背負ってみたら、その余りの軽さに泣けて三歩もあゆめなかった――これは、皆さんもよくよくさかのぼってみれば、生まれて、2歳、3歳と成長するうちに、いろいろなご縁の中で、背負われたり抱かれたりする経験や、そういう肌触り、感覚、あるいは記憶があろうかと思います。
一方では、齢を重ね成長し、逆に母を背負ってみた時の軽さの中に、啄木の感慨としては、その軽さに泣いて三歩あゆまず――こういうふうな歌があります。
この歌と出会いますと、私も個人的には、どういう情景と重なるか…。平成19年4月25日に私の母親は94歳で亡くなりました。その際に、施設でお世話になっていた母親を自宅に戻す時に、母親を抱いて自宅の座敷に移したわけです。その時の軽さは、たぶん35キロ余りしかなかったのだと思います。その軽さを改めて感じたと同時に、一方ではわが身がかつて母親の背に背負われて育ったことを思い出し、そして涙したことも改めて思い出すことがあります。それは今、紹介した啄木の歌を通して、そういうことも感じられるものがあろうかと思います。

私たちは、人間の関係というものを、自己と他者という二分化した関係の中で考えるのが通常の感覚、常識かもわかりませんけれども、仏教的には、そこのところを重ね合わす思考、思いめぐらす、そのことが私に何を気づかしめるのか。私に智慧として気かしめる何があるのだろうかと、そのように考えてみる、思いめぐらせてみるということが大事ではないだろうかと思ったりもいたします。
仏教も、これを対象的に、向こう側にある仏さまとして考えるのではなくて、私がまさに今ここにいる、そこにすでにいる、「すでに」ということとして、阿弥陀仏のはたらきが、私をおさめ取って捨てない、と。これを「摂取不捨」と言います。この私を必ず仏の世界、浄土に生まれさせたいという、そういうはたらきとして、私をおさめ取って下さるのが仏様である。それを向こう側に切り離して考えてしまっては、仏教はなかなか私の身につかないでしょう。それは、観察すべき対象、向こう側にじっと見つめる対象としてあるわけではない。「我にあらざるはたらき」、「非我」のはたらきとして、仏教を受けとめて、自分の身に重ね合わせて考えてみる、ということだろうと思います。

先日から、学生たちの多くのサークルの中でも、私たちにとっては非常に喜ばしい、嬉しい報告もいただいています。吹奏楽部は全国大会に出場してすでに金賞を8回受賞していますけれども、今回もまた北海道での全国大会で金賞を獲たという報告をいただいて、9回目の金賞をたいへん嬉しく思っています。男子バレーボール部も西日本で(2015年度関西学生バレーボール秋季リーグ戦)で優勝して、全国大会に出るという報告も受けました。
サークルの活動にも、嬉しいこともあるし、残念なこともあります。先日も、私が今は顧問になっているアメリカンフットボール部が、京都大学と試合をしました。まさに完敗でした。昨年は京都大学に、創部以来初めて勝って喜んだのですけれども、今年は、見事に戦略を立てられて、いわゆるラン攻撃という攻撃の一本のパターン攻撃で、完敗しました。このことは相手側も、何が相手の弱点であるのかを調べていたということだと思います。それぞれ勝ち敗けはあるにしても、私たちはそういう意味では、根本的には、いただいた“いのち”、恵まれた“いのち”を、この身にいただいているものだという謙虚さをもって、自惚れることなく、傲慢になることなく精一杯の努力をしていく、傾注していくということだろうと思います。

今日は10月のお勤めをさせていただきました。この樹心館という建物は、このたび国の有形文化財の登録を受けることになり、この後登録証の授与式が執り行われます。これは、もとは西本願寺の境内にあった建物であります。さらにさかのぼれば、大阪の南警察署の建物であったと聞いております。こういう古い建物が、新しい瀬田キャンパスの礼拝堂として活用されることに、非常にありがたいご縁をいただいたと思っております。
今日は、その時にご尽力いただいた本願寺派元総長で、その前には龍谷大学の事務局長も務めていただきました蓮清典さまにもご出席いただいて式典が執り行われます。表に登録文化財のプレートができますので、皆さんも樹心館の由来を知っていただければと思います。

今日は、朝早くからたくさんの方にお参りをいただいたことに感謝申しあげまして、終わりにさせていただきます。ありがとうございました。

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