11月の法話 2015年11月24日(火)/深草顕真館
おはようございます。朝早くから、ようこそお参りいただきました。
11月24日ということで、京都もしばらくは観光シーズンで、ずいぶん多くの観光客の皆さんが京都市内各地を訪れているようです。京都駅を通りますと、たいへん賑わっているというか混雑している光景が見られます。そういう光景を見ると、なるほど観光都市世界一の京都の現状を物語っています。
テレビを見ますと、フランスのパリでは13日に同時多発テロ事件が起こり、多くの方々が亡くなっています。また先月31日には、エジプトのシナイ半島でロシアの旅客機が墜落して乗客乗員224人全員が亡くなりました。痛ましい事件が、世界各地で生じているのは、ご承知のことだろうと思います。
よく指摘されるように、世界に生ずるいろいろな出来事は、かつてとは違ってさまざまな影響を直ちに及ぼします。グローバル社会といわれる時代となり、モノ・ヒト・カネ国境を越えて、複雑に行き交う社会になっています。そういった意味で、日本のある所で大きな事故があれば、世界中の関連する事業も停止してしまいます。これを象徴している出来事としては、東日本大震災によって、ある地域で自動車部品の工場が操業を停止するという事態になりました。するとその部品を供給して製造していた日本国内のみならず世界中の自動車生産ラインが一気にストップしてしまう――。こういった複雑な、そしてまたさまざまな利害が錯綜する現代の中に、私たちは生きている、生活をしている、仕事をしている、という現状があります。
それがゆえに、私たちはじっくりとこの複雑にして利害が絡み合う現代社会を丁寧に分析して、より複雑化するプロセスをしっかりと考えて、解きほぐして、現代を考えなければならないと思います。
先週、大学の中で、「全学協議会」といって、大学と学友会とが、5つの議題でさまざまな討議をしました。その時に、学友会のリーダーの皆さん方が、サークルの多くの方々に呼びかけて、顕真館や大宮本館、そして樹心館に「月に1回でもみんなで参拝しよう」と言っていただいたおかげで、今日はこのように多くの学生の皆さんにもお参りいただきました。
この顕真館講堂の正面には、「南無阿弥陀仏」という、親鸞聖人が84歳の時にしたためられた名号が刻まれています。この意味するところは、いろいろなところで書かれていますし、読まれたこともあろうかと思いますが、すべての衆生、生きとし生ける者が阿弥陀仏のはたらきの中で、“いのち”恵まれている、必ず光り輝いている浄土に行き生まれさせたいのだというはたらきを示すものとして、南無阿弥陀仏という名号が刻まれています。
そういう意味では、別の言い方をするならば、量ることのできない智慧と慈悲のはたらきの中で、常に私たちはその世界の中におさめ取られている、ということであります。そのことは直ちに、私たち一人ひとりは気づかないかもわかりません。しかし、いざ、立ち止まって、深く自己を問い、そしてまた、自己にはたらいている“いのち”を考えれば、それはひとえに、私自身の思いとか力とか、そういう自らのちからで左右するものではなく、あるいは、動かしているのではなく、そこには量ることができない智慧と慈悲がこの私にはたらいている。そのことによって、すべての人々、生きとし生けるもの尊い存在としてある。私自身も尊い、代わることのできない、”いのち”を持った存在であると同時に、すべての人たちも尊い存在であり、尊厳をもった存在として、お互いが尊び合っていける社会が願われていくのだ、ということになります。
これは現実では必ずしもそのとおりには行かないわけです。しかしながら、現実をただ単純に肯定するわけではなくて、そういった“いのち”をいただいている者が、共に歩むような人生としてこの現実を作りあげていかないといけない。そういう使命、実践性が私たちに求められていることだと思います。
つい最近、『民主主義をあきらめない』(岩波ブックレット№937)という本を読みました。同志社大学大学院のビジネス研究科に、国際経済学の分野を専門にしている浜矩子先生――時々テレビなどにも出られますが――がこの本の中で言っているごく短い言葉の中で、今の社会の中で非常に大切にしなければならないキーワードとして「多様性」と「包摂性」という言葉を提示しておられました。皆さんもそういうキーワードは聞かれたことがあろうかと思います。そしてその「多様性」と「包摂性」をもつ社会をつくりあげていくうえで、何が大切なのかと言えば、三つのことがあるのではないかと指摘されています。それが「耳」と「眼」と「手」、三つの道具が重要だというわけです。
なぜ「耳」なのかと言うと、傾ける耳。「傾聴する」という言葉がありますけれども、人の言うことに耳を傾けていくことが大切だ、というのです。逆に言うと、私たちは一方的な独断とか一方的な言いつけということではなくて、傾ける耳というものが大切で、お互いの違いは違いとしてありながらも、他人の話、言葉に耳を傾けていくことが大切ではないか。
「眼」については、どういう眼が大切なのか。浜先生が言うのは、涙する眼が大切ではないか、と。それは人の痛みを自分の痛みとして受けとめることが、涙する目なのだ、と。つまり人の苦しみや悲しみを思って、涙する。言うならば、もらい泣きをすることのできる眼が大切ではないか。人の痛みに出会い、それを聞き、そしてまた人の苦しみに出会ったら、私は直ちに代わることはできないけれども、そのことを通して涙することのできる眼が大切ではないかと。
そして最後に「手」とはどういう手なのか――。手を差し伸べる。つまり窮地に陥っている人たちを、そこから救いあげるために差し伸べる手が大切ではないか。自らが他者に対してそういう営みをしていく。
耳、眼、手の三つ。いかなる耳であり、いかなる眼であり、いかなる手であるのかということに、少し思いをいたした時に初めて、これだけ複雑な利害が交錯する社会の中で、お互いがともに生かされていくような、そういう望ましい社会のつくり手として、私が成長していける。そういう文脈の中で、講演をされている文章を読んだことがあります。
私たちの大学の建学の精神は、常々申しているように浄土真宗のみ教えですけれども、それは、私たち自身のあり方が常々照らし出されている阿弥陀仏の光に支えていただいて、お互いがお互いとして尊び合っていける、一人ひとりが阿弥陀仏の光を仰ぐ者として、輝いた“いのち”を有している者だ、と。他に代わることのできない尊い“いのち”をいただいた身である――そのことを深く感じとって、現実の諸条件は様々に変化するものですから、その諸条件の中で様々に悩みがあった際にも、諸条件としてあるものはチェンジできる、変化させることができる、あるいは変化するものとして、決して固定するものではない。そのように考えることも大切だと思ったりもします。
私たち自身も、〈私〉と言っています。理解することはなかなか難しいわけですけれども、この〈私〉が、その実体をもっているわけではありません。西欧的な近代というものは、〈私〉というものを自明の前提にして物事を対象的に観察したり、対象的に認識をしている。そこにある種の観察とか、分析も生じるわけですが、しかしながら一方では、仏教的な思惟、仏教的な考え方の基本として、私たちには、量ることのできない、思議を超えた、分析を超えた、そういった尊い“いのち”を恵まれた者同士である。そういう根本的な深い考え方、世界に〈私〉は出遇って、その中で精一杯、自分たちの努力を積み重ねて、お互いの違いを多様性として尊重し合う。そしてまた、お互いを包摂性として包み込んでいく世界を、また考えてみる。そういうふうなことが重要ではないかと思います。
日本社会というのは、いろいろと変化する中で、「インテグリティ(integrity)」という言葉を書いている人の文章を読みましたけれども、それは言葉の上から言うと「統合性」あるいは「首尾一貫性」という意味です。それは場当たり的な答弁とか、場当たり的な嘘八百を並べない、人の基本線、人間の原点、ここのところは譲ることはできないという原理原則。人の世界においては、やはり人間の尊厳性を確保することを、揺るがせにしてはならない。そのことによって、人間社会の基本的な信頼が実現していく。基本としては、インテグリティのある人。つまり首尾一貫性を求めていく人、首尾一貫性を考え続ける人というのが、大事なことではないかと、このようなことを指摘された文章がありました。
それは、私たちの建学の精神と結びつけて言うならば、いつどこであっても阿弥陀仏の光に照らしだされている〈私〉である、ということの中に生活をすれば、あるいはそういう学生生活を過ごすならば、そこに自ずから、首尾一貫した姿勢のもとで、首尾一貫した生き方の中で、何を目指して歩んでいくのか。そういうものとしての学生生活、あるいは人生の筋道が生まれてくる、開けてくるのではないかと、このように考えたりもします。
11月も末になり、間もなく12月を迎えます。皆さんもご承知のとおり、12月8日はお釈迦さまが覚りを得られた「成道会」という日を迎えます。一方で74年前の12月8日は、日米開戦をした日でもあります。
お釈迦さまが菩提樹という木のもとで瞑想されて、覚りを得られた。どういう内容で迷いから悟りへの世界に到られたのか。本学は仏教系の大学でありますので、私たちはそういう道筋を、その事柄を知識として求めてみたり、あるいは自らの生き方としても求めて、そのことを言語でもって端的に説明をして、また自分以外の方にも伝えていく言葉を身につけていただきたいと思うことでもあります。
そのためには、やはりなんらかのテキストを読まないといけないと思います。大学生、大学という環境の中では書籍が身近にあるわけですから、テキストをしっかりと読む。お釈迦さまの語られた言葉を、一冊でも二冊でもテキストを読んでみることによって、どういう言葉でそのことを説明していけばよいのか、そういうことを身につけていくということだと思います。本質的なはたらきについては、なかなか説明しがたいところがありますけれども、そこに到る事柄を丁寧に、どういう言葉で表現すれば、的確に他者に伝わっていくのかを十分に考え抜いていくことが重要だと思います。
先ほど言いましたように、世界も大きく移り変わり、日本社会も大きく、さまざまな利害が錯綜しながら動いている現実があります。自分たちの拠って立つ根拠を求めながらそれを分析し、同時にまた自分たち自身の人生の生き方、方向性をそれぞれが見出していく――そういった営みをしっかりとしていただければと思うことでもあります。
学生の運動系のサークルの多くは、ほぼシーズンも終わりかけだろうと思います。シーズンを終わって、この1年間という中で精一杯練習をして、さまざまに、パートナーとして、チームメートとしても励んできたことが一定の成果として生まれてきた。あるいはその中で残念に思うこともあろうかと思いますけれども、そこには集中して時間を費やし取り組んだものが、形として現われてきているのだと思います。その努力に対して、私たちは深い敬意を表したいと思います。
本日は、たくさんの方々とご一緒にお参りをさせていただいて、それぞれに先ほど申しあげたように、南無阿弥陀仏のはたらき、そのお心を私たちの中にしっかりと受けとめて、日々の生活をさせていただきたいと、このように願うことでもございます。
本日はようこそお参りいただきました。