2025.12.11
能く瓦礫を変じて金と成さしめんがごとくせしむ
“能く瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ”
(『唯信鈔文意』/註釈版聖典 七〇八頁)
【深草学舎正門掲示板】
今回の掲示法語は親鸞聖人が書いた『唯信鈔文意』から紹介します。法語にある言葉は、中国の慈愍三蔵という方が、一切衆生を往生させようと誓われる阿弥陀如来の本願力を讃嘆した偈です。親鸞聖人はこの偈に解説を施されて、石・瓦(かわら)・礫(つぶて)のごとき我々であっても阿弥陀如来の摂取の光に遇ってこの上ない涅槃の境地に至らせていただく、つまりは金(こがね)になさしめられるのだとおっしゃいます。親鸞聖人にとって阿弥陀さまの教えとの出遇いは、まさに自分の人生のあり方を全く別のものに転変させられるようなものだったのでしょう。
この文章を読んでいる皆さんは、何か自分の価値観やあり方がガラッと変わるのを経験したことはないでしょうか。たとえば、新しい知識や誰かの言葉に触れたとき、それまで当たり前だと思っていた世界の見え方が、ふと揺らぐことがあります。自分の立っている場所は同じなのに景色が違って見える、学ぶというのは、そうした「心の向き」を少しずつ変えていく営みなのだと思います。
学びは単に情報を増やすだけではなく、自分のものさしを問い直し、他者や世界をこれまでとは違う角度から見つめるきっかけになります。昨日まで石や瓦のように思えていた自分の歩みが、少しだけ温かい光に照らされていたことに気づくような瞬間もあるでしょう。そうした“見え方の変化”が重なっていくと、自分の生き方もまた静かに、しかし確かに変わっていきます。学ぶということは、まさに人生の風景を開いていくことなのかもしれません。
【原文】
「能令瓦礫変成金」といふは、「能」はよくといふ。「令」はせしむといふ。「瓦」はかはらといふ。「礫」はつぶてといふ。「変成金」は、「変成」はかへなすといふ。「金」はこがねといふ。かはら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。れふし・あき人、さまざまのものはみな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにをさめとられまゐらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし・あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどをよくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。摂取のひかりと申すは、阿弥陀仏の御こころにをさめとりたまふゆゑなり。文のこころはおもふほどは申しあらはし候はねども、あらあら申すなり。ふかきことはこれにておしはからせたまふべし。この文は、慈愍三蔵と申す聖人の御釈なり。震旦(中国)には恵日三蔵と申すなり。
(教学伝道センター編『浄土真宗聖典―註釈版 第二版―』 七〇八頁)
【現代語訳】
「能令瓦礫変成金」というのは、「能」は「よく」ということであり、「令」は「させる」ということであり、「瓦」は「かわら」ということであり、「礫」は「つぶて」ということである。「変成金」とは、「変成」は「かえてしまう」ということであり、「金」は「こがね」ということである。つまり、瓦や小石を金に変えてしまうようなことだと例えておられるのである。漁猟を行うものや商いを行う人など、さまざまなものとは、いずれもみな、石や瓦や小石のようなわたしたち自身のことである。如来の誓願を疑いなくひとすじに信じれば、摂取の光明の中に摂め取られて、必ず大いなる仏のさとりを開かせてくださる。すなわち、漁猟を行うものや商いを行う人などは、石や瓦や小石などを見事に金にしてしまうように救われていくのである、と例えておられるのである。摂取の光明とは、阿弥陀仏のお心に摂め取ってくださるから、そのようにいうのである。この文の意味は、十分にいい表すことができていないけれども大体のところは述べた。深いところは、これらのことからお考えいただきたい。この文は、慈愍三蔵といわれる聖人の御文である。中国では慧日三蔵といわれている。
(浄土真宗教学研究所編『浄土真宗聖典 唯信鈔文意―現代語版―』 二〇頁)
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