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卒業式・入学式

2020年度(新2年生)入学式 式辞

経済学部、経済学研究科、経営学部、経営学研究科、
法学部、法学研究科、政策学部、政策学研究科のみなさまへの式辞

新2回生の皆さん、昨年は入学式を挙行することができませんでした。大学入学という新たな門出を大学あげてお祝いできなかったことに対し、大変心苦しく、申し訳なく思っておりました。1年遅れとなりましたが、本日入学式を行ない、学長としてのメッセージを皆さんに届けたいと思います。

皆さん、この一年本当によくがんばりました。昨年は大学に入ったにもかかわらず、キャンパスライフを満喫することができず、何度もやるせない気持ちになったかと思います。幻滅を味わった方も少なくないはずです。しかし、このコロナによって気づいたこともあったはずです。第一に、「ありふれた日常」が「かけがえのない日常」であったことに。そして第二に、人間的交流の大切さ、人とのふれあいの大切さに気づいた人もいるでしょう。そして、もう一つ、皆さんがステイホームしているときも、皆さんのためにはたらいてくれていた人たちがいることを。見知らぬところで皆さんを支えてくれていた人たちがいることは胸に刻んでおくべきことです。

いま、新型コロナウイルスによって人間社会に甚大な被害がもたらされています。当面はワクチンに頼らざるを得ませんが、こうした事態を招いたのは何が主たる要因だったのでしょうか。改めて考えてみなくてはなりません。

自然の奥地にいる野生動物の体を宿にしているウイルスがどうして人間に移ってくるのか。現在、鉱物採掘などのための森林伐採や食肉・ペット利用の野生生物の乱獲などが世界各地で行われています。こうした人間の活動と動物由来の感染症が無関係であるはずはありません。

自己利益を増大させようとする人間の精神性が人間社会に新型のウイルスを招き寄せている現実に目を向けない限り、今回のような感染拡大はこれからも繰り返されるでしょう。問題は、「人間」なのです。紛争、経済格差、二酸化炭素排出など、いま社会課題となっているものは全て人間の行いです。いまコロナ禍で、どのように私たちが振る舞うかが問われています。コロナを他人事として見ている限り、感染拡大は止まりません。

龍谷大学に学ぶ者は建学の精神に照らして、人間の思考・人間の行い、さらには己のありようを見つめます。

皆さんはすでに昨年度、必修科目「仏教の思想」を習い、建学の精神についても説明を受けたかと思います。大学は単なる知識を習得するだけの場ではありません。大事なことは、大学は人格を形成する場であるということです。

コロナ禍で社会不安が拡がっているときは、とかく他人に対して攻撃的な言動が目立ちます。自分のいらだちを他者に向けてしまうことは誰にでも起こり得ます。深草キャンパスでリスタートをきる2回生のみなさんに今日は「和言愛語」ということを伝えたいと思います。

深草キャンパスに和顔館という建物があります。「和顔」は、「和顔愛語」という仏教語から採られたものです。「和顔」は「穏やかな顔」を意味します。「愛語」とは「優しい言葉」という意味です。穏やかな顔、優しい言葉。日常生活を振り返ってみて、どうでしょう。皆さん、穏やかな顔をして、優しい言葉を使っておられるでしょうか。

この「和顔愛語」という言葉は、親鸞聖人が拠り所にされた『無量寿経』という経典に出てまいります。阿弥陀仏の過去世のお姿である法蔵菩薩が誓願を立て、菩薩行を修されている時の描写に「和顔愛語」という言葉が出てきます。

菩薩としての穏やかな顔であり、菩薩としての優しい言葉であることを、まず知る必要があります。穏やかな顔、優しい言葉、簡単に聞こえると思います。しかし日常、辛い時、苦しい時、和顔ができますか。苦手な人、いやな人の前で愛語が使えますか。「和顔愛語」というのは、実は難しいことなのです。

私たちは成長していくと、穏やかな顔や優しい言葉から遠ざかるのかもしれません。赤ちゃんの笑顔を思い浮かべて下さい。赤ちゃんの笑顔は、周りの人たちに幸せな気分を与えます。表情というのは、人の心に強い印象を与えるのです。和顔も愛語も、実は与えるという行為なのです。

仏教に「布施」という言葉があります。今では、僧侶に差し出すお金のように思われていますが、もとの意味は「与えること」。古代インド語の「ダーナ(dāna)」、これを意訳して「布施」。「ダーナ」の音を写した音写語が「旦那」。「ちょっと旦那さん」という、あの「旦那」です。一般にお坊さんへ金品を布施する、これを「財施(ざいせ)」といいます。そしてお坊さんが一般の人に教えを布施すること、これを「法施(ほうせ)」といいます。法施をしない僧侶は、僧侶ではありません。

ここで重要なことがあります。財を持っていなくてもできる布施があるのです。その一つが「和顔施(わげんせ)」。穏やかな顔を与える。もう一つが「言辞施(ごんじせ)」。これは愛語と同じ意味です。つまり、「和顔愛語」というのは布施なのです。

皆さんは「与えること」を深く考えたことがあるでしょうか。通常、私たちはもらうこと、得ることに喜びを感じて生きています。バイト代をもらった、欲しかった服を買った、嬉しいですよね。私たちは普通、得ることに価値を置いています。得ること、英語で言えば「ゲット」。ゲットすることに喜びを見出しているのです。しかし仏教は与えること、英語で言えば「ギブ」です。ギブに価値を置くのです。

菩薩という存在は、布施し続ける存在なのです。他者に喜びを与える。他者に幸福感を与える。相手の苦悩をやわらげ、相手の悲しみを自分のものとする。菩薩の中心にあるのは慈悲の心です。慈悲に基づく行為を「利他」と言います。得ることを喜び、得ることに価値を置きすぎている私たちは、菩薩の姿とはかけ離れています。しかし仏教が、人間の理想像として掲げる菩薩の特性から、様々なことを学ぶことはできます。

日常、不平不満ばかりを募らせている人。心を怒りでわしづかみにされている人。周りに迷惑をかけていることに気づかない人。そういう人たちに和顔はありません。愛語はありません。龍谷大学は、自分の至らなさに気づける大学です。「和顔愛語」の重要性に気づける大学です。

ところで、先ほどの『無量寿経』に出てくる「和顔愛語」ですが、続きがあります。「和顔愛語」の後に「先意承問(せんいじょうもん)」という言葉が続きます。意を先にして承問する。これは、どういう意味かと申しますと、相手の気持ちを慮って、相手の意向をくみ取って行動するという意味です。菩薩は、相手の気持ちを察して、相手の意向を尊重しながら行動する存在です。相手が、もしかすると性格の悪い人かもしれない。相手が冷酷な人物かもしれない。しかし、相手の意向を尊重しつつ、手段を講じて、仏道へと誘うのです。

これを私たちの日常生活に応用すれば、どうなるでしょうか。例えば、教員が学生諸君に講義をしている場合に、学生諸君の反応があまりよろしくない時、自分の説明は十分に意を尽くしていないと察し、別の手法を用いて理解に導く。さらに例を挙げれば、優れたレストランではお客さんに、「注文、お願いします」なんて言わせないそうです。スタッフが客に気を配り、客の意向をいち早く察知して素早く対応します。相手の気持ちを慮ることは、良好な人間関係を築く要といっていいかと思います。

とかく私たちは自己主張をし、自分の立場だけでものを言いがちです。そうすると、見解を異にする相手と対立するはめに陥ります。その対立が激化すると、とんでもないことが起こります。相手の立場を考えながら意見交換することで、深い理解が得られていくのです。お互いが相手の立場を慮って歩み寄りをしない限り、平和はあり得ません。

龍谷大学は、382年の歴史と伝統があります。その間、いくつもの対立があり、その危機を乗り越えてきました。その基底にあったのは、建学の精神です。一人ひとりが龍谷大学の建学の精神を体現し、建学の精神に基づく行動を社会に布施していく。これこそが、我が大学の社会貢献です。先人の努力によって、我が大学は教育力を高めてきました。それこそ身を粉にして努力をしてきた教員、職員、そして君たちの先輩がいたればこそ、今日の龍谷大学があるのです。そのことをどうか忘れないでいただきたいと思います。

再度申し上げます。「和顔愛語」「先意承問」――この『無量寿経』に出てくる言葉。相手に対して私たちは穏やかな顔を与え、優しい言葉をかけ、そして相手の立場に立って考え、行動をする。

「和顔愛語」「先意承問」――この言葉をどうか胸に刻んでおいてください。

一年遅れとなりましたが、あえて言わせてください。

ご入学まことにおめでとうございます。

2021(令和3)年4月4日

龍谷大学・龍谷大学短期大学部
学長  入澤 崇