私たちはいま、あらゆるものごとが複雑さを増し、めまぐるしく変化する、不安定で不確実な時代を生きています。おのずから、未来を予測することがとてもむずかしくなっています。こうした状況にあって、これからの龍谷大学が果たすべき使命とは何か。どのような大学をめざし、どのようにして社会、そして世界に貢献していくのか―そのことを明らかにしたのが、2019年度に策定した「龍谷大学基本構想400」(略称:構想400)です。
2020年度から取り組みを開始した構想400は、本学が創立400周年を迎える2039年の「龍谷大学のあるべき姿」をひとつの到達点として設定した、20年にわたる“超”長期計画です。正解のない予測困難な社会では、従来の発想や方法が通用しないことも多くなります。むろん、大学も例外ではありません。そうしたきわめて厳しい環境であっても、今後も地域社会や世界から期待され、またその期待に応えうる高等教育機関でありつづけるために必要なものは何か。それは、画角の広い高質なミッションとビジョンの設定と多様かつ柔軟な発想に基づく、変化を恐れない果敢な挑戦です。
構想400を構成する“龍谷大学だからこそ”の「使命」や「2039年の将来ビジョン」、さまざまな学びの機会をとおして「育むべき力とマインド」、さらに「長期目標」や「重点戦略」、「プロジェクト・マネジメント」は、まさに20年後も龍谷大学がかけがえのない存在意義を発揮して、社会課題の解決に意欲的に取り組み、世界の持続的な発展に尽くしていくための道具立てなのです。
“龍谷大学だからこそ”の根幹にあるのは、言うまでもなく建学の精神である「浄土真宗の精神」です。浄土真宗の精神とは、「生きとし生けるもの全てを、迷いから悟りへと転換させたい」という阿弥陀仏の誓願のことです。この阿弥陀仏の誓願に出遇い、真実の教えを開顕し、真実の道を歩んだのが親鸞聖人(1173-1263)です。そうした親鸞聖人の生き方に学び、「真実を求め、真実に生き、真実を顕かにする」ことのできる人間を育成することが、揺らぐことのない本学の教育理念・目的です。
本学の学歌に、「世運の流れ遷(うつ)るとも 正法(しょうぼう)萬古(ばんこ)変わりなし 公孫樹(いちょう)の陰に法幢(ほうどう)を 真心(まごころ)こめて守りゆく」という一節があります。歌われているとおり、「正法」や「法幢」とも表現されている建学の精神は、龍谷大学のとりかえのきかない不変の本質的価値として、未来へと守り伝えていくべきものです。ただし、ただ「守りゆく」のではなく、「真心こめて守りゆく」と歌われている点を見逃したくありません。なぜならば、そこに墨守とは異なる姿勢を読み取ることができると思うからです。
そもそも、「真心(まごころ)」とは何でしょうか。この言葉の歴史は、いまから千年ほど前の文学作品にまで遡ります。おそらく、10世紀末ごろに成立した『落窪(おちくぼ)物語』に見える例が現在確認できるもっとも古いものでしょう。『落窪物語』は、継母(ままはは)にいじめられる姫君が侍女の助けを借りて貴公子に救い出され、幸せを掴むという、シンデレラなどと同じ“継子いじめ”の物語です。そのなかで、継母に仕えている女房が、落窪の姫君に「ほんとうはあなたにお仕えしたい」との思いをそっと伝える場面があります。それを聞いた姫君は、本来なら自分の味方になってくれるべき人でさえ「まごころ」のある様子が見えないのに、敵方であるはずのあなたがそのようなことを言ってくれてとてもうれしい、と答えます。ここで姫君が語る「まごころ」とは、たんに「いつわりや飾りのないありのままの心・気持」(『日本国語大辞典 第二版』)というよりも、「誠心誠意他にほどこし尽くす心」(同前)、相手(いじめられている私)を思いやり、その人のために役立ちたいという心を意味しているのではないでしょうか。
『枕草子』(10世紀末~11世紀初め)や『源氏物語』(11世紀初めごろ)における「まごころ」も、同じように相手のことを尊重し、相手のために何とかしてやりたいという心として解釈できます。しかも、その相手は弱い立場にあり、それゆえにこれからどうなるかわからないという不安な状態におかれている、という共通点もあります。そうした“他者”の存在抜きに成り立たないのが「まごころ」なのでしょう。
「まごころ」とは、私ひとりで完結し、成り立つものでなく、他者に開かれ、他者との関係のなかで、他者に向かい、他者のためにみずからを突き動かすものなのです。自分にたいして嘘をつかず正直になり、自分の思いをありのままに表現したからといって、そこに「まごころ」が育まれるわけではありません。自分(たち)の慣れ親しんだ世界(観)からしかものごとを見ず、自分(たち)の主張ばかりを振りかざし、自分(たち)の利益になることを最優先するようなふるまいに、「まごころ」を見出すことはできません。
本学は、創立380周年の基本コンセプトとして「自省利他」という行動哲学を掲げました。構想400の基調にも据えている「自省利他」とは、利己的な自己をたえず見つめ、自己中心性をつねに解きほぐしつつ、他者を思いやり、他者の悩みや苦しみをわがこととして受け止め、他者の幸福のために行動することです。それを和語で表現するならば、まさに「まごころ」でしょう。
国語学者の佐竹昭広氏(1927-2008)は、現代において「まごころ」という和語が幅広くあいまいに用いられている点に触れつつ、次のように述べています。「現代社会の人間関係は、極度に多様化した価値観のために大変ぎくしゃくしたものになっている。こういう社会においては、曖昧で不透明な和語の方が、かえって人間関係を円滑に保ち、多くの人々をゆるやかに結びつける力を発揮するようである」(『万葉集抜書』岩波書店)。「曖昧で不透明」であるがゆえに、ときに偏った意味合いで用いられる危険のあることをも自覚しつつ、それでも私たちは「まごころ」という和語が有する本源的な意味と現代的な「結びつける力」に可能性を見ます。和語「まこごろ」を世界の共通語「Magokoro」へと昇華し、世界の人々と共有することで、地球規模の諸課題の解決にともに取り組み、世界平和の実現に向けた道をともに歩むことがかならずやできるにちがいありません。
そうした思いをこめた、構想400における「2039年の将来ビジョン」は以下のとおりです。
「まごころ~Magokoro~」ある市民を育み、新たな知と価値の創造を図ることで、あらゆる「壁」や「違い」を乗り越え、世界の平和に寄与するプラットフォームとなる。
私たちが「守りゆく」建学の精神は不変です。いっぽうで、それをどのように「真心こめて」具現化するかは、取り組むべき課題や見出す問いに応じて変わりうることでしょう。そこにはつねに向き合うべき他者がいます。一様でもなければ定常的でもない多様な他者です。そうした他者との関係のなかで育まれ、他者に向かって発揮される「まごころ」をもって柔軟かつ主体的に、持続可能な社会、世界、そして地球の実現のために貢献することが、本学の重要な使命であると確信しています。
私たちは、創立400周年を超えた未来をも見据えつつ、本学の主人公である学生が「まごころ」ある市民となるように全力で育んでいきます。そして、“龍谷大学だからこそ”の使命を果たしていきます。
龍谷大学 学長 安 藤 徹