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The Founding Spirit

宗教部 建学の精神

“あたり前”の先にある喜び

感謝の心を持ちましょうとは、小さな頃からよく言われることですが、無理矢理に感謝しようとしても思うようにはいきません。では、感謝の心はどうしたら生まれてくるのでしょうか。

感謝の思いを表わす「ありがとう」という言葉は、形容詞「ありがたい」という言葉が変化したものです。「ありがたい」は「たい」、つまり「めったにない」ということです。ですから、感謝の心とは私を取り巻くさまざまな事柄に対して、あたり前ではないと感じる心が、その本質であると言ってよいでしょう。
中国の故事成語に「飲水思源いんすいしげん(水を飲みて源を思う)」という言葉があります。一杯の水を飲む時も、この水がどういう経緯で今ここにあるのかということに思いを致すべきだと教える言葉です。私たちにとって、水は水道の蛇口をひねれば出るもので、そんなことは“あたり前”と思っています。しかし、本当にそうかと問われたら、どうでしょう。私たちの人生から喜びを奪っているもの、それは案外、私たち自身のこうした感性の鈍さなのかも知れません。

明治から昭和のはじめに、山陰地方に足利源左あしかがげんざさん(1842~1930)という浄土真宗の教えを深く喜ばれた方がおられました。この方は、田んぼで農作業をした後に泥だらけになった手足を洗うと、いつも自分の手を拝んで「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏をされていたといいます。一緒にいた孫が「おじいちゃん、なんで手を拝むの?」とくと、源左さんは「80過ぎてもなあ、こうして元気に働かせてもらえる手をもらっての、ありがたいことだ。それにな、親からもらった手は強いもんだのう。80年使ってもな、いっかな(少しも)、さいかけせえでもええけえの」と応えられたそうです。

「さいかけ」とは山陰地方の方言で、摩耗したすきくわの刃先の鉄を付け替えることで、つまり“手は付け替えなくていいからね”と言われているのです。なるほど、農作業の道具は、使えば折れたりり減ったりして、使い物にならなくなります。しかし、親からもらった手は、どんな道具より丈夫な素晴らしい宝物だ、と喜ばれているのです。皆さんはこのエピソードを聞いてどう思いますか。変わった人?……そうですね、自分の手を拝んで喜ぶなんてちょっと変わっていますね。しかし源左さんのこの喜びは、今の私たちが見失いがちな喜びなのではないでしょうか。

源左さんの瑞々みずみずしい感性は、本学の「建学の精神」でもある真実の教え(浄土真宗)によって育まれたものです。私たちを愛おしむ豊かな光に照らされ、“あたり前”が“あたり前ではなかった”と知らされていくことで、「生かされていることへの『感謝』の心」が育まれていくのです。