龍谷大学が1639(寛永16)年に西本願寺学林として創設され、明治の学制改革によって「大教校」と改められるにともなって、1879(明治12)年に講堂として完成しました。1964(昭和39)年には明治初期の洋風建築の代表例として国の重要文化財に指定されました。その後、110余年に及ぶ風雪による激しい傷みのため、1992(平成4)年に全面解体修復に取りかかり、まる5年の歳月を費やして1997(平成9)年5月に改修竣工の運びとなりました。
勤行・法要をはじめ、各種の行事・式典が行なわれます。また、仏前結婚式に利用されるなど、龍谷大学関係者にとって大切な場所となっています。
本館は一般に「擬洋風建築」といわれ、完全な洋風の建築技術がまだ日本に定着する前の、和洋折衷を取り入れざるを得なかった頃の貴重な建造物で、次のような特徴を持っています。
外観上、石の柱が立ち並び、あたかも石造や煉瓦造のような印象を与えますが、実際は木造で石材は柱などの木部に貼り付けられています。これを「木造石貼り」といい、比較的早い時期に外国人が居住した横浜などで用いられましたが、現存するのは本館のみです。木造部分はほぼ日本の伝統的な工法によっていますが、補強にボルトなどの金物が数多く用いられ、また屋根を支える小屋組にキングポスト構造が採用されるなど、洋風建築技術も取り入れられています。
講堂の柱頭玄関壁は「漆喰」塗りで、柱もすべて塗り込めてしまう大壁造り。窓や出入り口の枠は欅でつくられ、美しい木目が浮かび上がるように透明の塗料(ワニス)で仕上げられています。
屋内細部装飾は、一見すると洋風ですが、よく目を凝らすと昔から日本建築に使われてきた菊や桐などの植物、雲などが多用されています。講堂の柱頭の彫刻は、西洋建築の特徴的なモチーフであるアカンサスを真似てデザインしたと考えられています。階段の親柱の彫刻も、明治期の洋風建築の粋と言えます。
当時はちょうど100畳の大空間で学生は正座して講義を受けました。 部屋の天井には、布(クロス)が、下地に和紙を使った日本の伝統的な手法で貼られていて、この講堂の布は、金糸がふんだんに織り込まれた「金襴織り」です。明治皇后の寄贈によると伝えられ、新調にあたっては材料、織り方、色などを詳しく調査し忠実に復元しました。正倉院御物の復元などを行っている京都の龍村美術織物に依頼しました。
当時、蝶番や締金物などは入手困難であったため、ほとんどの窓は上げ下げ式になっています。また、畳敷きであった頃の名残を感じさせるのが、窓の位置です一般の洋館に比べやや低く、扉の取っ手の位置も低い。袈裟姿で座って扉を開けるのにちょうど良い高さです。カーテンポールは創建当時のものですが、カーテンは大正時代の品に倣いました。
二階北西の部屋は貴賓室として使用しています。
明治13年夏に明治天皇が訪問されたときに休憩室として使われました。カーペットの小花唐草文様など当時品を忠実に再現しています。
狩野派11代狩野英信(1717~1763、法眼祐清)作の屏風。
明治天皇をお迎えするときに立てたと伝えられ、現在、貴賓室に飾られています。同じく明治天皇ご使用と伝えられる椅子もあります。
金色の紋は六つ藤と呼ばれる当時の大教校の校章です。
・「眞宗學庠」の扁額は、第20代広如上人が文政13年(1830)に下付されました。
本館の西側には窓がありません。これは浄土真宗のお寺と同じです。通常の洋風建築なら必ず窓を設けますが、あるのは通用口だけです。こういったことから大宮学舎は洋風を取り入れながらかなり伝統重視の意識でつくられたのがわります。
卍模様をアレンジした通気口。