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The Founding Spirit

宗教部 建学の精神

龍谷大学「建学の精神」解説

最初に掲げられている「建学の精神」について、少し話をしておきましょう。

まず、「建学の精神」という場合の「建学」とは、学校を創立・創設することですが、それぞれの学校は創設されるにあたって、固有の理念や目的を持っています。そしてその理念や目的として表現される根本の「精神」が、その後の学校の歴史のなかに流れ、あるいは展開して、学校の運営や教育・研究が行なわれているわけです。

つまりこの学校はどういう精神でもって運営され、研究・教育がなされ、どのような人を育てようとしているのかという、その根本の「精神」を「建学の精神」というのです。

国公立の学校に比べて、特に私立学校はその多様性に特徴があり、教育や研究における個性的貢献が学校の存在そのものの意義を保証しているというところがあります。ただし私立学校といえども、ことに教育においては公共性を無視するわけにはいきませんが、私立学校が一定の公共性を保ちつつも、独自の個性や多様性をもって社会に貢献することは、多様な現実の社会を維持する上でも重要な意味を持っていると考えられ、その意味で私立学校の建学の精神は大きな意味をもって扱われることになるわけです。

さて、龍谷大学の「建学の精神」は、学則などにも示されているように「浄土真宗の精神」です。この場合の「浄土真宗」とはいわゆる仏教の「宗派」を表わすものではありません。親鸞聖人によれば、それは『無量寿経』の教えであり、「阿弥陀仏(如来)の誓願(本願)の救い」を意味する言葉です。

この阿弥陀仏(如来)の誓願(本願)とは、生きとし生けるものすべてを救おうという誓いであり願いのことですが、その救いとは、この「本願が起こされた理由」と、「本願のはたらきのありさま」を聞き信じたところに成立すると、親鸞聖人は示されました。

その「本願が起こされた理由」とは何かと言えば、私たちが煩悩ぼんのう(むさぼりの心、怒りの心、道理を知らぬ愚かな心、など)によって生きている迷いの存在であったから、如来は本願を起こされたのであるということです。言い換えるなら、私たち自身のありさまについて聞き知ることが、「本願が起こされた理由」を聞くことにほかなりません。

また、「本願のはたらきのありさま」を聞くとは、その迷いの私たちをこそ救わねばならないと動いていてくださる如来について聞き知るということです。すなわち、私たちを最後にはブッダ(仏)という最高の存在に成長させようとはたらき続けている如来について聞かせていただく、ということになるわけです。

さて、「浄土真宗の精神とは、生きとし生けるもの全てを、迷いから悟りへ転換させたいという阿弥陀仏の誓願」に他ならないと表わされています。

そして、「迷いから悟りへ転換」と言われる、その「迷い」とは何かと言えば、「自己中心的な見方によって、真実を知らずに自ら苦しみをつくり出しているあり方」と示されています。

仏教では、迷いの存在(凡夫ぼんぶ)から悟りの存在(仏)へと成ることを「転迷開悟てんめいかいご」といいますが、これこそ世界中のあらゆる仏教徒が求めているものです。「迷い」が「苦」という結果を招き、「悟り」によって本当の「楽」が得られるのですから、その「苦」の解決こそが仏教の目的であるということになります。

しかしながら如来(阿弥陀仏)は、私たちをご覧になって、私たち自身にその「苦」を解決する能力はないと見られ、如来自身の本願によってそれをし遂げさせようと、はたらいてくださいました。それが如来の本願(誓願)です。ですから「真実を求め、真実に生き、真実をあきらかにする」といわれている「真実」とは、本来、私たちにあるものではなく、如来(阿弥陀仏)に属することなのです。

私たちの「真実のすがた」についても「私たちの真実の救い」についても、本当は如来のはたらきによるしかないということ、逆に言えば「真実の私たちのすがた」を知ることも、「真実の救い」の成立も、如来より与えられて初めて私たちの上に実現するということです。

「自らの自己中心性があらにされる」ことも、「自己中心性を離れ、ありのままのすがたをありのままに見る」ことができるようになって、「自己の思想・観点・価値観等を絶対視する」ような「硬直した視点から解放され」て、「広く柔らかな視野を獲得することができる」のも、如来の本願によって成立するわけですから、それを「阿弥陀仏の願いに照らされ」と表わされているわけです。

この本願(誓願)の精神すなわち「浄土真宗の精神」によって、さまざまな縁によってしか存在することができない私たち自身の真実のすがたが知らされ、私たちのあるべきすがたが顕らかになります。

また、この「阿弥陀仏の願いに生かされ、真実の道を歩まれた」具体的な存在の代表が親鸞という人でありましたので、「親鸞聖人の生き方に学ぶ」ということが示されてもいるわけです。

ひるがえって仏教は、人間の苦しみは煩悩によって変わりゆくものに執われることによって起こっていると教えます。そして自ら煩悩ぼんのうによって縛りつけられ、とらわれることによって「苦」という結果を招いているのであるから、その煩悩から心を解放すべきであると教えます。

しかしながら一方で、たとえば「欲」の心は、私たちにとっては行動の原動力にもなっています。その「欲」の現われ方は多様ですが、私たちのさまざまな行動の多くがこの「欲」につながっているとも言えましょう。

それは「名声を得たい」「お金持ちになりたい」などという「欲」だけでなく、「研究を成功させたい」「人々を幸せにしたい」などという「意欲」も含めて、たくさんの「欲」がうごめき、あるいは競い合っているのが現実の社会であるとも言えるのです。

人間の社会では必ずしも否定される「欲」ばかりではないように思われますが、しかしどのような「欲」であっても、それに何の制御も加えられることなく、かえりみられることがない状況になるならば、それは「むさぼり」というしき「欲」になってしまう恐れがあります。

そして、それによって私たちの社会は単なる競争社会になり、弱肉強食の世界に陥ってしまうと考えられます。そうなれば世界は今よりさらに明確に、勝者と敗者を分断する社会を形成し、いわゆる「格差社会」の状況は、いよいよ顕著になっていくようにも思えます。つまり「欲」の力は、私たちの行動の原動力になると同時に、私たちの社会の崩壊のもとにもなり得ると考えられるのです。

そうなると次に、例えばこの「欲」の「力」をどのように扱い、どの「方向」に向けるべきか、いかにコントロールすべきかということが問題になってきます。その時、いったい何が本当で、真実であるのかということを問い、私たちがどのように考え、いかに向かうべき方向を定めるべきかという指針を持っていることは、大きな意義を発揮してくるものと思われます。

そしてそこに、「浄土真宗の精神」として龍谷大学の「建学の精神」が定められていることの意味があります。

さて、「建学の精神」を具現する心として以下の5項目がまとめられていますので、少し考えておきましょう。

すべてのいのちを大切にする「平等」の心

……「平等」とは、英語では“equality”とか“impartiality”などと訳されますが、仏教でいう「平等」とは単なる「同等」という意味ではありません。

生きとし生けるものは、さまざまな縁によって種々の異なったすがたをしているけれども、すべての者が等しく仏になるという意味で、平等であると言えましょう。特に如来(阿弥陀仏)の本願の眼差しにおいて、私たちが皆、そのような尊い「いのち」であると見られている点で平等なのです。そのような「まなこ」をいただいた時、それぞれの良さを認め尊重するあり方があらわれます。このことを「建学の精神」は伝えようとしています。

真実を求め真実に生きる「自立」の心

……一般に「自立心」といえば他の援助や支配を受けず、自分だけの力で物事を行なっていこうとする気持ちのことをいいますが、ここでは「真実を求め真実に生きる」謙虚な心を「自立」の心としています。

前に見たように「真実」は如来の世界に属することですから、「真実を求める」とは如来の救いを求めること、言い換えれば如来の眼差しからする人間観・世界観を受け容れ、それを確かな依りどころにするということです。そして、「真実に生きる」とは、その如来の真実のあり方を依りどころとした謙虚なあり方こそが、本当の「自立」の心であるということを示しています。

常にわが身をかえりみる「内省」の心

……「内省」とは自己をかえりみることを言いますが、本当の意味で自己をかえりみるということは、実はかえりみようとしている自己そのものを知ることなのです。しかし、その能力のない私たちに、この私のすべてを映し出してくださるのが如来(阿弥陀仏)という“鏡”です。

その“鏡”に映し出されて初めて、自己のありのままのすがた、すなわち愚かな私のすがたをかえりみることができるのです。これこそが本当の意味での「内省」であり、親鸞聖人の示されるところなのです。

生かされていることへの「感謝」の心

……私たちは普通に生きていると、自分が生きているのであって、なかなか「生かされている」という感覚にはならないかも知れません。

しかし、わかりやすいところで言えば、私たちが眠っている間も、肺は呼吸し心臓は動いてくれているように、さまざまな条件が関係し合い、たまたま整っているからこそ生きているのであると、仏教は教えてくれています。

そして、そのような私をブッダ(仏)という最高の存在に成長させてくださるのが如来であると知った時、私たちに「感謝」の心が恵まれます。

この如来(阿弥陀仏)の光に照らされて、“あたり前”のことが“あたり前ではなかった”と知らされた時、またそこに「生かされている」という「感謝」の心が恵まれるのです。

人類の対話と共存を願う「平和」の心

……私たちは対話と共存を願っていると口に言うことはあるかも知れませんが、煩悩のうずまくこの世界は、その実現をはばんでいます。

しかし「浄土真宗」の「浄土」は、如来(阿弥陀仏)の教化の行きわたる世界であり、怨み・怒り・偏見などのない、私たちの理想とする平和な世界です。

このような浄土世界が示されているということは、そうではない現実を批判して、悔い改めよと教えさとしていることになります。理想がなければ、私たちは行くべき方向を見失い、悔い改める機会を失います。

ここに、いのちを見つめ、「平和」を実現しようとする尊い心が生まれるのです。