むすび・・・そしてはじまり ─龍谷大学の願い─

本学は、真実(浄土真宗)の教えにふれることによって、自己を深く見つめ、真しん摯し に生きることのできる人間を育成しようとして建てられた大学です。

近年、深い悩みを持ち、自らいのちを絶ってしまう人を見かけます。悲しいことです。

夏目漱石の小説『草枕』には、

はたらけかどつ。じょうさおさせばながされる。
意地いじとおせば窮屈きゅうくつだ。兎角とかくひとみにくい。
(『草枕』岩波文庫 1929/現代かな遣いに改める)

という有名な言葉が出てきます。思い通りにならず、人と角突き合わせて暮らすところには、常に苦悩が生まれます。まわりが見えなくなり、孤独感にさいなまれることも多々あることでしょう。

しかし、実は皆さんのことを深く思い、心配してくれている人が必ずいます。そのことにまず、気づいてください。

心の病を抱えて通院していたある学生は、「誰も親身に自分のことを考えてくれない」と深く悩み、いのちを絶とうとしました。しかしまさにその時、「よしいいぞ、そんなに苦しいなら、お父さんも一緒に死んでやる」と、自分をしっかりと抱きしめ、涙してくれた父の深い愛情にふれ、心の平穏を取り戻すことができたと言います。また、ある男性は思い詰めて自死を考えたが、ふとした縁で仕事を手伝った折りに「本当に助かった、ありがとう」と言われ、晴々とした表情をして帰っていかれたと言います。

ただの一人も必要のない人など、この世にはいません。大切に思い、受けとめてくれる人が必ずいるのです。しかし、視野が狭くなった時には、自身を大切に思い、受けとめてくれる存在が、見えなくなります。その存在が見える尊い「まなこ」を与えてくださるのが釈尊しゃくそん(ブッダ)の教えであり、本学の「建学の精神」なのです。

皆さんは、釈尊が何を説かれたか、ご存じですか?

実は、「いのちのはかなさ」と「真実の救い」を説かれたのです。今から2500年前にインドの地に現われ出られた釈尊は、「人生は苦である」と説諭せつゆされました。

人は、生まれ出ずる苦悩に始まり、老いの苦悩、病の苦悩、死の苦悩、あるいは大切な人を失う愛別離あいべつりの苦悩、軋轢あつれきのなかで憎しみ合う怨憎会おんぞうえの苦悩、望むものが得られない求不得ぐふとくの苦悩など、身心のすべてにわたって苦悩し続け(五取蘊苦ごしゅうんく)、何かあると「死ぬのではないか」と恐怖しながら、はかない人生を終えていくのです。若い時にはなかなか気づきませんが、世間にはそれほどに苦悩が満ち満ちているのです。

世の中には苦悩のあまり「死にたい」と思う人がいる反面、「生きたい」と思いながらも死んでいかなければならない人もたくさんいます。癌のために幼い子どもをのこして死んでいかなければならなかった人、地震による津波の被害から大事な家族を守るため自身を犠牲にした人、あるいは病気や事故などで先立っていかざるをえなかった幼い「いのち」……。

生きること自体が難しい──、それが私たちの世の中です。では、私たちはどのように生きていけばよいのでしょうか。また、必ずやってくる死を私たちは、どのように迎えたらよいのでしょうか。

この問いに対する答えを求めて若き日の釈尊しゃくそん(シッダー ルタ王子)は出家されました。そして、悟りを開かれた後、「この世のものは悲しいかな、すべて儚はかなくなりゆく。しかし死の恐怖を解決し、生きる依りどころとなる尊い教えがあるぞ」とお示しくださったのです。それが阿弥陀仏の誓願(浄土真宗)でした。

親鸞聖人もかつて、20年にわたる学問と修行の果てに、「どう生きるべきか、どう死ぬべきか」と深く悩まれました。そして、阿弥陀仏の誓願を聞いて、「この教えしかなかった」と感動し、深く喜ばれたのです。

こうして、深い悩みの果てに親鸞聖人もまた、しっかりとした「 」を得られました。私たちの「寄る辺」は普通、仕事であったり、財産であったり、家族であったりと、さまざまですが、しかし悲しいことに皆、失われていきます。

親鸞聖人の得られたものは、失われることのない真実(阿弥陀仏の誓願)でした。「必ず救い取るぞ」の願いをいただいて、今日の尊い一日を真摯に生きる暮らしを親鸞聖人は送られたのです。

わが子を亡くした悲しみのうちにあった方が、浄土真実の教え(浄土真宗)を聞いてまれた詩のなかに、

涙、涙、涙の故に
み仏はきよきみ国を建てたまいけり

という言葉があります。誰もがみな迎える家族の死──。この詩の言葉には、悲しいなかで家族の死を乗り越えて生きていく尊い道(生き方)が示されています。

「建学の精神」(浄土真宗)を聞いてどうなるのかと、皆さんは思われることでしょう。

「建学の精神」は、私たちを映し出す“鏡”です。この“鏡”の前では、自分をごまかすことができません。「建学の精神」の教えるところを深く受けとめると、人は「いのちの真実」を見つめ、自他のいのちが平等であることに気づくようになります。それまでは「すべて他人が悪い」と思い、人の「良さ」や「痛み」に心を向けることなく、自己中心的に暮らしてきた見方が、大きく改まるようになるのです。

人と意見が違うのはあたり前です。お互いに自分色に染めた勝手なすがたを思い描いているにもかかわらず、人も同じものを見ていると勘違いしているからです。だから「自分は間違っていない、すべて他人が悪い」と思い込む──。そして、人といさかいを起し、時には、それが昂じて尊いいのちをもあやめてしまうのです。その行き着くところが戦争です。

しかし、自他のいのちを見つめ始めれば、自己中心的で傲慢な生き方が、“お蔭さま”のなかで暮らす柔らかな感謝の暮らしへと変わります。悪しき心を持ちながらも、常に心に「なごみ」を持つあたたかく豊かな暮らしが、私たちの上にあらわれてくるのです。そして、自己を真摯に見つめる内省のなかで、いのちの平等や平和への思いが大きく育まれ、社会人としての自立した生き方が得られるようになるのです。ここに「人」としての成長があります。

こうした観点から、本学では、「建学の精神」の具体的な顕われ方として、「平等・自立・内省・感謝・平和」の五つの心を皆さんに示しました。この五つの心は、いろいろな所で言われる同じ名称の言葉とは意味が異なっており、あくまでも「建学の精神」にふれたことで顕わになる心です。

この五つの心が制定された時(1996年)、「五つにのみにこだわらない」ということが、あえて言われました。それは、「建学の精神」にふれることによって、何気なくしてきたことのすべてが「真実に生き、真実をあきらかにする」尊い生き方に変わるからです。

したがって、教えを説き伝えることだけが、真実を顕かにすることではありません。「建学の精神」にふれて育成された「正直な心」も「敬う心」も「物を大切にする心」も何もかもすべてが、真実を顕らかにしたあり方にほかならないのです。

そして、そこにまた同時に、本学の優れた教育による高度な知識が教授されます。教授する教員も、世話をする職員も皆、「建学の精神」のかもし出す環境のなかで育まれてきた「人」たちです。

その一人ひとりの講義や指導を通して、皆さんにまた「建学の精神」が伝えられていく──。そんな教育のあり方が、本学では伝統的に行なわれてきたのです。

ことに龍谷大学宗教部では「建学の精神」を全学生および全教職員の皆さんに広く深く伝えるため、さまざまな活動をしています。毎朝の勤行に始まり、毎月の法要、毎年4月の花まつり(灌仏会かんぶつえ )、5月の創立記念・親鸞聖人降誕会、10月の報恩講、そして12月の成人のつどいのほか、講演会やイベントを行なっています。また、皆さんの相談の場になるようにと「宗教部オフィスアワー」も設けました。

このような全学的な人間育成の取り組みのなかで、自ら を深く見つめて人生を積極的に歩み始められた皆さんが、 やがて社会人となり、心豊かな暮らしを送り、心豊かな社 会を創っていく──。

そのために、本学は寛永16(1639)年の建学以来、真実 の教え(浄土真宗)を「建学の精神」として大切にしてきた のです。

どうぞ、本学への入学を尊い縁として、一日一日を大切 に過ごすことのできる「心豊かな人」に育っていただきた いと、念願いたします。

龍大はじめの一歩
-龍谷大学『建学の精神」-


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